「――――」
私はその場でへたり込む。
「あは……ははは」
薄曇りの空を見上げれば、変な笑いが込み上げてきた。
空虚に笑っている。
笑っているはずなのに、涙がこぼれていた。
「レイナッ……!」
リュートの声が聞こえた。
その声には焦燥がにじんでいる。
あんなにリュートが焦っている場面なんて、原作でも現実でも覚えがない。
彼は空を駆け、私の元へと降り立った。
きっと私の連絡を受けて、急いで来てくれたのだろう。
「無事か……!?」
彼は私に駆け寄り、肩を抱いた。
リュートは私の顔を覗き込む。
見ないで欲しい。
きっと今の私は、ひどい顔をしているだろうから。
「魔王……様」
「レイナ……それは」
リュートの視線が降りてゆく。
地面へと。
私がナイフを振り下ろした場所へと。
「…………」
そこには、誰もいない地面にナイフが刺さっていた。
「……ごめんなさい」
そう。
結局のところ私は、彼を殺せなかったのだ。
気が付けば、振り下ろしたナイフは軌道を変え、彼を避けていた。
なんとか彼が這いずりながら逃げ出した時も、追えなかった。
ただ茫然と、座り込むことしかできなかったのだ。
「私がちゃんとしていればこんなことにはならなかったから、責任を取らないとって……思っていたのに」
ぽつぽつと漏れてしまう本音。
私は、ロイの存在に気付いていながら動かなかった。
そのせいで彼にリュートの生存が露見してしまった。
大きすぎる失態。
それを帳消しにするには、私がロイを殺すしかない。
そう思っていたのに。
「――殺せなかった」
しかし、いざ絶好の場面が訪れたとき、私は動けなかった。
責任を果たせなかった。
「生き方を決めたはずなのに……ごめんなさい」
人ではなく魔族に寄り添って生きていく。
そう決めたつもりだったのに。
この世界で生きていく決意を固めたはずだったのに。
好きなゲームのキャラクターだから死なせたくない。
そんなプレイヤー気分を捨てることはできたのかもしれない。
だが、もっと根源的な倫理観。
元の世界で培われてきた価値観。
――人を殺したくない。
命の危機にさらされることが極端に少ない優しい世界で育ってきたからこその思考回路が私の手元を狂わせたのだ。
元の世界よりはるかに死が身近なこの世界で、きっと私の考えは甘えと呼ぶべきものなのだろう。
そう分かっていても、手が動かなかったのだ。
「ごめんなさい」
涙が止まらない。
懺悔の涙が頬を流れてゆく。
この世界で生きる1人として、自分の役割をまっとうするためここに来たはずだったのに。
――いや、違うのだろうか。
私は、気が付かなかったふりをしていただけだったのだろう。
――なぜ私は、リュートと一緒にここへと来なかった?
――どうして返り討ちにされる確率が高いというのに、1人でここに来た?
ここに1人で来ると決めた時点で私は覚悟なんてできていなかったのだ。
私は自分で決着をつけるために1人で来たんじゃない。
リュートと一緒に彼を見つけたら、絶対に見逃せないから。
最後の逃げ道を確保するため、1人で来たんだ。
(逃げる覚悟も、貫く覚悟もなかった)
いっそリュートにロイの対処を丸投げしてしまう手だってあった。
彼の場所を教えるだけで、あの部屋で待っていればそれで解決だったのだから。
それを拒んだのは、私の中にある責任感。
その癖にそれを果たすだけの気概もない。
貫かない責任感なんて無意味でしかないというのに。
「まったく……馬鹿なことをしたものだな」
リュートの静かな声。
彼の顔を見る勇気がない。
「……ごめんなさい」
だから顔を伏せ、目を閉じる。
「お前が無事でよかった」
穏やかな声。
責める色など微塵もない、ただただ優しい声だった。
「……え?」
思わず呆けた声が漏れてしまった。
きっと今度こそ失望させただろう。
そう思っていたのに。
「咎められるとでも思ったのか?」
「……はい」
素直にうなずく。
すると、彼の手が私の頭を撫でた。
滑るように。
いたわるように。
愛でるように。
「クク。傲慢だな。オレを差し置いて、事の責任を背負おうなどとは」
彼はそう笑う。
冗談めかすように。
「悪いが、お前たち全員の責任を背負うことが許されるのは王であるオレだけだ」
「それに――この手が血に染まらなくてよかった」
そう言って、彼は私の手を取った。
ずっとナイフを握りしめていたせいで、今でも白い肌には跡が残っている。
だけどそこには一滴の血もついていない。
「それはどういう……」
思わず聞き返してしまう。
そんな私の間抜けな反応に、彼は微笑んだ。
「この世界では、戦わねば奪われる」
そうだ。
この世界はそういう世界だ。
ゲームの画面越しでしか知らなかったけれど。
本当の覚悟なんて、私の胸にはなかったけれど。
「だが、お前にはそうあって欲しくない」
しかし、リュートはそれを肯定する。
この世界の摂理に置いていかれた私の覚悟を。
弱くて脆くて、貫けなかった覚悟を。
それでいいのだと肯定した。
「覚悟を持って戦う者は美しい。だが、そうなったお前の姿をあまり想像したくないというか……ふむ、言語化するのが難しい感情だな」
どこか面白そうに笑うリュート。
「もしかするとオレは、お前には浮世離れした――他とは違う存在であって欲しいという想いがあるのかもしれんな」
「えっと……それは」
困惑。
それが私の率直な感情だった。
彼にまさかそんなことを言われるとは思わなかったのだ。
なんというか、
それではまるで、彼が私を特別視しているみたいではないか。
そんな妄想じみた想像をしてしまう。
自惚れにしても限度というものがあるだろう。
「ともあれ、今は物思いにふけっている場合ではないな」
彼が私の手を引く。
そのままエスコートされようにして私は立ち上がった。
「わざわざ奴がここに戻るとは思えんが、安全とも限らないからな」
そう言って、彼はふっと笑う。
「帰ろうか。オレの城に」
「……はい」
押し潰されそうな罪悪感は消して消えない。
それでも私はうなずいた。
彼のいるところに帰りたいと思った。
「…………」
彼に手を引かれ、私は城へと戻ってゆく。
空を飛ぶこともなく。
ワープゲートを通ることもなく。
歩いて。
ゆっくりと城へと戻った。