聖王国の中心にそびえる王城。
その一室。
負傷者を収容し、命をつなぐための場所。
そんなところにノア=アリアはいた。
聖女としての活動が主だった頃、彼女はここで癒し手として頻繁に働いていた。
しかし王子の妻として政治に関わるようになってからは足を運ぶ機会も減っていた。
ではなぜ、彼女がここにいるのか。
それは今日運ばれたばかりの彼から話を聞かなければならなかったからだ。
「酷い怪我……」
ノアはベッドに横たわる男性――ロイの体を撫でる。
もちろんただ撫でているだけではない。
指先が緑の淡い光を放つ。
指が滑れば、肌に刻まれた傷が消えてゆく。
ノアは聖女としての力をいかんなく発揮し、ロイの体を癒してゆく。
「やはり貴方を1人で行かせるだなんて無茶を――」
弱々しくノアはそう呟いた。
――ロイを単身で魔族領に送り込む。
聖女の力とはいえ、遠隔かつ継続的に浄化の力を付与できるのは1人だけ。
だから屈指の実力を持つ1人としてロイが選ばれた。
理屈としては理解している。
しかし彼女は最後まで難色を示していた。
その結果がこれだ。
大切な情報と引き換えに、ロイは死にかけて帰ってきた。
その事実にノアは唇を噛む。
「それ以上、言わないでくれ」
だが、そんな彼女の言葉を遮ったのはロイ自身だった。
彼の額には脂汗が浮かんでいる。
彼は瀕死の状態で魔族領を逃げ出し、近隣の町まで戻ったのだ。
そこで応急処置は受けていたそうだが、それでも聖王国に運び込まれるまでの間ずっと生死の境をさまよっていたのだ。
いくら聖女の力で治療していると言っても、これまでに失われた体力をすべて回復できるわけではない。
だから今にも意識を失いそうなほど苦しいはずなのに。
それでもロイはまっすぐにノアを見つめていた。
「期待に応えられなかった自分が不甲斐なくて許せなくなる」
それどころか彼の表情には悔しさが滲んでいた。
過剰にも思える自戒と責任感。
彼らしいといえば彼らしいのだが――
「そんな……!」
ノアは悲痛な声を上げる。
「ロイは1人で戦って、帰って来てくれた。期待に応えられなかったなんて……そんなこと言わないで」
ノアはロイの手を握る。
その手を伝い、聖女の力が彼の全身を包んでゆく。
そうすることで少しずつ、それでいて確実に彼を死から遠ざけてゆく。
「貴方がもし、命がけでここまで帰ってきてくれなかったら……」
ノアは悲しげに目を伏せる。
目を閉じ、深呼吸。
再び彼女が眼を開けたとき、そこには凛とした色が宿っていた。
先程までの心が揺れていたノアの姿はない。
そこにいるのは、救世を為した少女だった。
「魔王は……生きているのね?」
彼女がそう問い返す。
ロイから伝えられた信じがたい情報。
「はい」
それを彼は肯定した。
「あの力、影武者ということもないはず」
ロイは潜入の末、リュートと刃を交えたという。
彼はノアたちと共に以前、彼と死闘を演じているのだ。
別人と間違えることはないだろう。
「あの戦いは終わっていなかった……ということね」
苦しげに聖女はそう漏らす。
聖女ノアを中心とした戦いを経て、魔王リュートを討ち取った。
そう思っていたのに。
もう悲劇は繰り返されないと思っていたのに。
戦いは終わっていなかったのだ。
聖女は生きていて、魔王も生きている。
終わらない。
ここで終わるわけにはいかないのだ。
「それに、魔王城にはあの魔女もいた。もしかすると、奴がなにか――」
「魔女……」
ロイの口から出た『魔女』という言葉に、ノアは顔をゆがめた。
その言葉が誰を示すのか、彼女に分からないはずがない。
「まさか……まだあの女のことを気にかけているのか?」
咎めるようにロイは問う。
「……いえ、少し考え事をしていただけ」
ノアは首を横に振った。
だが彼女の浮かない表情を見れば、『魔女』のことを気にしていることは明らかだった。
彼女はまだ切り捨てられないのだ。
徹頭徹尾。
彼女を恨み尽くした少女のことを。
「私は、私がやるべきことが何か分かっているつもりよ」
それでもノアはそう宣言した。
彼女は聖女だ。
そして王女だ。
昔から彼女は多くの人の命を、未来を背負って生きてきた。
人民が託した希望に応え続けてきたのだ。
「ロイ、まずは体を癒して」
「はい」
ノアの言葉に、ロイはうなずく。
はやる気持ちがないわけではないだろう。
それでも、これから世界の命運を左右する大きな流れが待ち構えている。
だからこそ落ち着いて、見据えなければならない。
それを理解しているのだ。
少しでも力を温存するかのようにロイは全身から力を抜き、ノアが与える聖女の力に身を任せた。
「そうしたら、私たちも動きましょう」
魔王との戦い。
それは一筋縄ではいかない。
万全に万全を重ねた準備をしなければならない。
「聖女として、やり残した役割を果たすために」
ノアは波乱の未来を見据えていた。
聖女と魔王の戦い。
終わっていたはずの戦い、その続きはもうすぐ綴られようとしていた。
――そんな光景を見つめ、『私』は微笑んだ。