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第87話

 再び、私たちはホテルの屋上を訪れていた。

 ずっとそこで待っていたのだろうか。

 すでにそこにはノアが座って待っていた。

「考える時間は充分でしたか?」

 ノアの視線の先では、リュートが足を組んで座っている。

 彼の表情には変わらず悠然とした微笑が浮かんでいた。

「考えるまでもない話だったがな」

「それでは答えを聞かせてください」


「無論、断る」


 即答だった。

 もし仮に、あそこで考えられる時間を与えられていなかったとしても。

 それでも同じように答えたのだろう。

 そう思えるほどに迷いのない即答だった。

「戦争を避けるためとはいえ、オレの首は差し出せんな」

「また、戦うのですか?」

「恐ろしいか?」

 彼はノアにそう問いかけた。

 あえて挑発的な意図が込められた問い。

 しかしノアの表情に苛立ちや怒りの感情は見えない。

「いえ。戦えば、必ず私たちが勝ちます」

 そう答えるノア。

 堂々と。

 その表情に虚勢は見えない。

 あくまで事実を口にしているだけ。

 そう言わんばかりに彼女はまっすぐリュートを見つめている。

「なかなかの自信だな。それともただの決意表明か?」

「事実です」


「だって貴方は以前より弱くなっているんですから」


「っ」

 ノアが告げた言葉。

 それに思わず反応してしまいそうになり、慌てて表情を取り繕う。

 なにせ彼女が口にしたのは、絶対に露見してはいけない事実だったから。

 動揺をさらして相手に確信させるようなことがあってはならない。

「私が聖女だからなのでしょうか。気配で、貴方が弱っていることが分かるんです」

 世界を浄化する存在。

 唯一魔族を討ち得る救世主。

 そんな聖女だからなのか。

 彼女はリュートの身に起きている異常を見抜いていた。

 動揺を誘うためのハッタリにしては踏み込みすぎている。

 ここまで言う以上、ノアの中でほぼ確信できているということだろう。

「だから、戦えば私たちが勝ちます」

 4人がかりとはいえ、ノアたちは全盛期のリュートを一度倒している。

 しかも今度は、魂の分割によってリュートが弱体化している。

 ノアとの一騎打ちであっても敗北する可能性は十分に考えられる。

「それでも戦争を始めるのですか?」

 両陣営の最大戦力を比べたとき、人類に分がある。

 その事実が露見していたとしても強気な姿勢を保てるのか。

 ノアの問いはそういう意味だろう。

(リュートが弱っていることがバレてる……!)

 なんとか平静を装っている。

 だが私の脳内は荒れ狂っていた。

(人間が魔族と戦争をする上で、もっとも恐ろしいのは魔王)

 魔王には人間が束になっても叶わない。

 聖女ノアでも勝てるかは分からない。

 仮に勝てたとしても甚大な被害を受けてしまう。

 そう思わせられるから、人間側を牽制できる可能性があった。

 言ってしまえばハッタリだ。

 魔王リュートという強力なカードを前面に出すことで手を出せない状況を作る。

 ――そのカードが本来の効力を発揮しないと知っているのは私たちだけだから。

(彼が倒せなければ逆に人間が滅ぼされるという前提があるから、譲歩を引き出せる可能性があったのに)

 勝っても負けても大打撃を受ける。

 そんな事実を盾に、どうにか戦争を起こさないほうへと話を誘導してゆく。

 それだけが勝ち筋だったはずなのに。

(でもリュートが弱っていて、ノアなら充分に倒せると判断されたら)

 戦えばほぼ勝てると相手に思わせてしまったら。

 ……交渉の余地はない。

 人間側にとって、この戦争はほぼ確実に勝てる戦いなのだから。

 魔族の側から何かを要求することは難しいのだ。

 どんな譲歩にも意味はない。

 手に入れたいものは、戦って奪えばいいのだから。

(これじゃあノアを説得するなんて無理だ……)

 交渉は対等な間柄でしか成立しない。

 力関係に上下があるとバレてしまえば、そこには明確な立場の優劣が生まれてしまう。

「状況は理解できましたか」

 これまでのノアの言葉はすべて慈悲だったのだ。

 戦えば自分が勝つと理解した上で。

 それでも魔族が滅ばない道を提示しただけ。

「これは私たちが妥協点を探す話し合いの場ではありません」

 妥協点なんてものは対等な力関係があって初めて模索するもの。

 一方が明らかに優位な場合、不利な側はロクに抵抗できはしない。

 生存のための道を、言い値で買うしかないのだ。

「貴方たち魔族が滅ぶかどうかを決める話し合いです」

 リュートの首だけでなんとか魔族が存続するか。

 それとも魔王ともども魔族全体が滅びるか。

 最初からノアたちはその2つの選択肢しか用意していない。

「改めて聞きます」


「魔族の存続のため――貴方は命を差し出しますか?」

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