アーノルドとリディアは王の間を目指し走る。そして目の前にある階段を登れば最上階、というところまで来ていた。
「アーノルド様! 少し休みましょうか?」
「はあ、はあ……いや、行こう。サーシャたちは……もう戦っているはずだから」
階段の前で立ち止まり声をかけたリディアに対して、アーノルドは自分を奮い立たせて進もうとする。
その時だった。
一瞬二人の目の前が真っ白になった。何かが強烈に光ったような、そんな感覚だった。あまりの眩しさに思わず腕で目を隠していたリディアがゆっくりと目を開けた。
「……?」
先ほどまでと何も変わらない状況に首を傾げる。
ピシッ
二人の腕近くから変な音が聞こえた。慌てて腕を見るが、何が起きたのかわからなかった。
ピシッ
同じ音が再び聞こえた。今度は腕に注目していたので二人ともはっきりとわかった。
「勇者の腕輪にひびが!」
リディアがそういった直後だった。
パキン!
と、二人の勇者の腕輪の中心にある球体が完全に割れた。それと同時にリディアの腕輪の割れた球体の中から恐ろしい量の黒い気が発生し、彼女の鼻の中へと入り込む。
「ん!? ……んんっ!」
その気持ち悪さにリディアは慌てて鼻をつまむが、そうすると今度は黒い気が口と耳から体の中へ侵入しようとしてきた。
「リディア!」
アーノルドが血相を変えて、リディアに入り込もうとする黒い気を手で振り払おうとするが効果はなかった。
「ア、アーノルド様……たす……け」
リディアは得体の知れないものが体に入ってくることに恐怖を感じて、足がガタガタと震えていた。為す術もないまま結局全ての黒い気がリディアの中へ入り、彼女は気を失った。震えは止まったが、立ったまま首と両手がだらんと垂れ下がり動かなくなった。
「……リディア? リディア!」
アーノルドが彼女の頬を軽く叩いてみるが反応がない。
一体何が起きたんだ? 勇者の腕輪が壊れ、中から黒い気が飛び出した。どうしてリディアだけそれが起こり、自分には何も起こらない? 違いは……はっ、そうか!
「球体は魔物の気を貯めてレベルとして表示する」つまり、自分は魔物を一体も倒していない ――レベル0―― だから何も起こらなかったのか!
たしかリディアはレベル70だった。ポンボールで出会ったアダムの話を思い出すと、レベル70は勇者の中でも結構高いものだったはず。だとすると、これはまずいのではないか?
アーノルドは頭の中でたくさんのことを考えた。考えたが、どうしたらいいのかわからなかった。ただ、動かなくなってしまったリディアのそばにいることしかできなかった。
ドクン!
とリディアの体が脈打った。アーノルドはリディアの意識が戻ったと喜んだが、すぐに様子がおかしいことに気がつき、距離を取った。
リディアの目が開いたが、そこに今までの彼女の面影はなかった。目を赤く輝かせて体中に黒い気を纏い、緑色の美しかった髪の毛は黒くなり、逆立ってしまっていた。
「ガアアアアァァァ!」
リディアは……いや、リディアだった魔物はアーノルドを見て、口を大きく開けて叫び声を上げた。
「うそだ……うそだといってくれ! リディア!」
アーノルドの目から涙があふれる。
魔物がアーノルドに向かって飛びかかってきた。せっかく宝物庫で手に入れた王家に伝わる銀の剣など、ただの飾りでしかなかった。アーノルドは剣を抜こうともせず、無謀にもただ両手を交差させ防御しようとした。
すると、なぜか魔物の攻撃は軌道が逸れてアーノルドの右横の壁を破壊した。
「ガアアァァァァッ!」
再び魔物が攻撃を繰り出す。それらはなぜか全てアーノルドに命中することはなく、側壁や天井、床を破壊する。
なぜそのような行動を取るのか、アーノルドにはその理由が理解できた。彼女はわざと攻撃を自分に当てないようにしている……リディアは魔物になっても、心までは奪われないように必死に抵抗しているのだ。その証拠に、赤く輝く両目から涙が溢れているではないか!
「リディア……」
しかし、アーノルドは魔物へと変貌したリディアのことをまともに見ることができなかった。ついさっきまで隣にいた彼女が魔物になってしまうなんて、信じられなかった。
これは礼拝堂でラームが暴走したときと同じではないか……はっ! そのとき、彼はリースの街で言われたラームからの言葉を思い出した。
――しっかりしろよ、こういうときは王子様が姫様を守るもんだぜ!――
アーノルドは覚悟を決めた。
腰に携えた銀色に輝く剣を抜き、右手だけで持って構える。シスターのくれた首飾りの効果もあり、震えることなく安定した姿勢を保てていた。
「リディア、僕が……」
魔物が三度、アーノルドに襲い掛かる。視界が涙で滲む中、彼は剣を振り上げ、斬りつけ……。
そのわずか一秒にも満たない時間の中で、アーノルドはリディアとの冒険の日々を走馬灯のように思い出していた。
西の森でラビティの群れに遭遇したこと。
リースの街でラームと出会い、ケプカと戦ったこと。
魔の森で、夜、二人きりで話をしたこと。
城を出てから今まで、ずっと一緒に旅を続けてきたこと。
それらが頭の中に浮かんでは消え、
「ごめん……やっぱり僕にはできない」
と、リディアを攻撃することができず、剣を下ろして目を閉じた。
しかし、魔物は攻撃してこなかった。
「……?」
アーノルドが目を開けると、すぐ目の前に魔物の……いや、リディアの顔があった。目と髪の色が人間であったときのものに戻っている。リディアも涙を流しながら、少し言いにくそうな、困った顔をしながら言った。
「アーノルド様、私を……殺してくださいまし」
その言葉に目を見開いてアーノルドが言い返す。
「そんなことできるわけないだろう!」
話をしながら二人とも涙が止まらなかった。リディアが震える声でなんとか話を続ける。
「でも、そうしないと私が……あなたを殺してしまいます!」
またしてもリディアの目が赤く輝き、髪の毛が一気に黒く染まり逆立った。体から黒い気が再び湧き立ち、彼女の両手がアーノルドの右手をがっしりと掴んだ。彼の右手には銀の剣が握られている。
そこを押さえられてしまっては攻撃することは不可能だった。
「ガアアアアアアァアァアァ!」
リディアだったものがまたしても口を大きく開けて叫び、アーノルドの右手を振り下ろした。
グシャッという肉を貫く音がした。アーノルドは確かにその音と剣が体を貫く感触と、生暖かい血のしぶきを味わった。
「ぐはっ!」
銀の剣は体の中心をしっかりと貫通していた。そして、
魔物はアーノルドの右手を掴み、彼を攻撃しようとしたのではなく、自身の体に突き刺したのだ。
仰向けになった魔物から黒い気が抜け出していく。それらはまとまって大きな黒い気の塊となり階段の上へと煙のように消えていった。その場に残された魔物はいつしか髪の毛の色も元に戻り、人間の姿を取り戻していた。
「リディア! ああ、なんてことだ!」
アーノルドはリディアに近づく。体の中心、ちょうど心臓の辺りに銀の剣が突き刺さり、そこから血が滲み出ている。剣を抜いたら一気に血が溢れ出そうで、引き抜くわけにはいかなかった。
彼は膝をつき、リディアに目一杯顔を近づける。
「リディア! しっかりしてくれ! リディア!」
「ア、アーノルド様……」
リディアはゆっくりと目を開けた。しかし、焦点があっていない。
彼女の視界はもうぼんやりとしていて何も見えていなかった。それでも最後の力を振り絞ってリディアは空へ手を伸ばす。アーノルドが両手で彼女の手を握ると、リディアの口元が緩んだ。
「お怪我はございませんか……」
アーノルドはこんなときに「アーノルド様は私がお守りいたしますから!」と彼女がいつも言っていた言葉を思い出した。最後の最後までそれを貫き通したリディアに、アーノルドは再び涙する。
「ああ……君のおかげだ…」
「よかった……」
ゴホゴホっとリディアが咳き込むと口から血が溢れ出す。息が段々と細くなってきた。何か、何か助かる方法はないのか? アーノルドはリディアの手を握り締めながら必死で考えた。
――何かあったらペンダントを握れば転移魔法をかけてやるからの――
サーシャ! サーシャならきっと助けてくれるはずだ! 頼むサーシャ! 何とかリディアを救ってくれ!
「アーノルド様……あなたと一緒に……冒険できて幸せ……でした」
アーノルドがリディアの首元に下がっているペンダントを掴もうとしたときだった。リディアの手から力が抜け、彼女の顔ががくんと横に傾いた。
「だめだ、死んじゃだめだ! リディア!」
アーノルドは、ペンダントを握りしめて「うわあああああ!」と泣き叫んだ。
リディアはもう、動くことはなかった。
彼女の胸元から溢れ出す赤い血だけが、コポコポと音を立てていた。