可笑しい。
八回目の死に戻りの時も、レイチェル様と一緒に居たのに、何が変わったのだろう。執事として傍にいることは変わっていないのに、以前よりも彼女を近くに感じる。
瞳だけではなくて、その考え方や笑顔を見ていると心臓がよくわからない音を出して、心をかき乱す。複雑で曖昧で形容しがたい感情。
日に日にレイチェル様のことが知りたくて、傍にいたくて、足りなくて。ギュッと抱きしめるか、抱きしめて貰うと落ち着くけれど、またすぐにソワソワしてしまう。
レイチェル様が
いつから自分は、こんなにポンコツになったのだろう。
いつからこんな風に、感情が制御できなくなったのだろう。
「ここまま役に立たなければ、レイチェル様の傍にいられなくなるのでは?」
そう考えてゾッとする。
いや、レイチェル様はそんなことは言わないだろう。優しく抱きしめて受け入れる。それが嬉しくもあるけれど、魔導書の怪物としての矜持が許せない。
そう私は魔導書の怪物。
正体がわからない、不気味な存在。この世界のあらゆることを知りたいと望み、この世界の叡智、アカシックレコードへの到達。それこそが私の存在理由だった。
世界の全てを知り、味わい尽くす。神々の目を掻い潜り、時に人間と賭をして自らの知識力の確認をする。人間との接点などその程度だったはずだ。
そう望まれ、そう生み出され、そうあるべきと思い込んでいた。
今までは──。
レイチェル様と出会ってから、何もかもが様変わりした。私の優先事項が揺らぎつつある。それは良い変化なのか、それとも──。
答えは出ない。
即断即決できないのも以前の私ならありえなかった。迷い、焦燥、困惑、言葉として、知識として知っていても実際に自身の感情として認識するまでに時間がかかる。何より『嫉妬』というものは、腹の中にとぐろを巻いた蛇を飼っているかのようなもので、上手く感情が抑えられない。『嫉妬』だけではない、複雑で、腹の底から湧き上がる。
人間の感情が、こんなにも凄まじいエネルギーを生み出すなんて知らなかった。短命で脆く消え去る種族だという認識は、撤回すべきでしょうね。
短命であるからこそ、煌星の如く輝く。人を魅了し、心を揺らし、胸を熱くする。異形種であり、人外がなぜ人間に惹かれるのか。その意味がなんとなく分かる気がした。
分かる、理解出来る。
それもまたレイチェル様と一緒にいることが増えたことで、相手の感情に共感することができた。少しずつ変わっていくのを実感する度に、自分が魔導書の怪物ではない別の何かになっていくのが分かる。
さらなる異形──怪物以上の怪物か、人間モドキか。それはそれで退屈はしないだろう。
ひとまず闇に乗じてレイチェル様を殺そうとする連中は、爆ぜて死ねば良い。
月も星もない宵闇の中、暗殺者をほぼ殺したことで行き場のない感情も落ち着いた。全員殺しては不味いと思い、数人確保しておくだけの理性は残っていたようだ。
判別が付かないほど肉片となったそれらと、辺り一面の血の海で鉄の匂いが鼻腔を擽る。ああ、早く戻ってレイチェル様に抱きしめて貰おう。そうすればこの匂いもすぐに消える。
甘くて砂糖菓子と花の匂い。どこもかしこも柔らかくて、温かい。
「レイチェル様不足になることが、今の私にとって一番の毒のようですね」
「おい、これは命令違反ではないのか?」
「どこが? 全滅させていないですし、どう見繕っても屑で害悪は処分しないと、のちのちレイチェル様に仇をなすかもしれません。人は変わることができる面白い生き物ですが、変わろうとしない人間はダメです。停滞を選んだ瞬間、屑は屑のまま。そんなものをレイチェル様の傍に置いておきたくもありません」
暗殺者の身につけている物から記憶を読み取り、普段どんな人物なのを算出して判定する。グォンも殺しておくべきだが、今は泳がせて置くほうがいい。これはカノン殿も同じ意見だった。
撒き餌として上手く動いて貰う。この事実はレイチェル様や
新手はないのを確認した後、不可視の鉤爪を解除した。
シリルは生き残った者たちを立たせて、交渉に入っている。この男、自然と人を従えるのが上手い。気付けばシリルの部下につきたい「雇って欲しい」と、志願する者までいた。
シリルに心酔して付いてくる部隊は彼に任せて、私は金で雇われた連中や家業としてやっている者たちの対応を引き受けた。彼らにとって価値基準は己の正義やら信仰などではなく、金。金さえあれば何でもやる連中。損得勘定で分かりやすい。その中でも家庭がある者や孤児院に仕送りしている者たちは、生活環境込みの安全を約束して契約を出すと、分かりやすく乗り換えた。
カノン殿から借りた『ソンシ』も面白かったですが、人間心理関係、交渉の本もなかなかに面白い。何より知識を、叡智を、実践で使いたい放題なのだ。
その成果として、カエルム領地に辿り着くまでに一個小隊の暗部ができあがっていた。
いや本当に恐ろしいのは、敵の手駒を自分陣営に鞍替えさせようと提案したカノン殿だろうか。その知略、人間思考における策略は見事。何もかも見据えたように淡々としているかと思えば、無謀にも音楽の神を超えると豪語する。
彼女もまたレイチェル様とは異なり、何を考えているのか予想不可能な人だ。
愉快だ。
こんなにも生きていることを楽しいと思えたのは、いつぶりだろうか。何より私に帰る場所があるというのは、なんとも心が温かくなる。居場所。住まいなどたいして興味も無かった昔が嘘のようだ。
もっと早くこの結論にたどり着いたら、レイチェル様を悲しませることは減らせたのでしょうか。まあ、今更でしょうけれど。
さて、今日の褒美は何がいいでしょうか。いつもはたくさん
「レイチェル様。今日は人の姿のまま一緒に眠っても良いですか?」と提案した結果、顔を真っ赤にして小さく頷いたレイチェル様はとても愛らしくて、今まで以上に心臓がバクバクして──本当にこの方は、私を振り回すようになった。