「!?」
花音様の大胆な行動に、体が硬直する。彼女は浮遊しているので、いつも俺と同じ目線で離す。そんな彼女の一喜一憂にドキリとしてしまう。少しは自分の好意が、花音様に伝わったのだろうか。そんな淡い期待が膨らむが──。
『しぃ。この森に妙なものが紛れ込んだわ。おそらく本体ではなく、分身か眷族だろうけれど』
全くムードもへったくれもない状況だった。いや花音様がこんな時に冗談を言う方でないのは、知っている。悲しいことに。
ガサガサと物音と共に、獣の気配が近づいてくる。嫌な予感というのは当たるもので、飛び出してきたのは四足獣の魔物だった。
宵闇の泥から生じたようなマーブル状の色に、鉱石のような固い毛並み、全長は狼と大差変わらないが、その額には真紅の宝石が埋め込まれている。
魔物は世界の亀裂より生じる存在だったが、この近くにそのような亀裂は見当たらなかった。であれば人外が意図的に送り込んできた可能性が高い。
「ディルク、話は後だ」
「はい」
一斉に襲いかかる魔物に向かって、聖水の小瓶を投擲。魔物の一人に当たった瞬間、聖水の浄化によって魔物二体が消滅。他の魔物が一瞬だけ怯んだ隙に、素早く首と額の宝石を砕く。この手の魔物は核となる魔石と首、両方同時に砕き切り落とす。この程度の魔物なら祖国で嫌というほど戦った。
魔女との戦いの時もあのような眷族がいたが、獰猛さと戦闘力と俊敏性は段違いだ。そして魔物の数が減らない。
「切りがないな」
『無尽蔵のように魔物を召喚しているとしたら、魔女あるいは人外の可能性が高い……目的は私たちの殲滅か、あるいは何かを試している? それとも……絞り切れないわね。それなら……。シリル、私の詠唱を復唱して』
「──ッ、はい」
このタイミングで花音様の指示ならば、それが最適解なのだろう。躊躇わず、復唱する。
「其は閉じかけの鏡。歪み壊れ穢れと共に砕け散れ、
空間にヒビが入り、あんなに溢れていた魔物はぽっかり開いた空間内に吸い込まれて砕けて消えた。ガシャン、と最後に鏡の割れたような音が鼓膜を叩く。
人外のような地方にない攻撃力に、自分で使っておきながら身が震えた。
「花音様……叡智だけではなく、このような力もお持ちだったのですね」
『人外と渡り歩くためにも、この手の力は必要でしょう。本当はもう少し温存しておきたかったけれど、悪魔相手に出し惜しみできないもの』
悪魔。
その単語だけで、昔の自分なら絶望的な気持ちになっていただろう。けれど不思議と怖くはなかった。
「やぁ、やぁ、やあ。古い術式をよく知っていたね~」
「!?」
「あ……ああああ……!!」
ディルクは突然現れた道化師を見て、呻き声を上げて座り込んだ。すでに心が折られているのか、戦意を喪失している。
「やあ、ディルク。百四十三年ぶりだねぇ。いつも君の新鮮な感情はとっても美味しくて、こんなに長持ちするなんて思っていなかったよぉ」
「……っ、ディアヘルム……様」
その道化は三日月のような歪んだ笑みを浮かべて、笑っていた。
一瞬で、周囲の空気が変わる。
「──ッ」
「俺たちは関係ないだろう!」
「そうだ!」
「だぁーーーめ」
対峙してすぐに、自分では太刀打ちできないと力量の差に愕然とした。足が、指先が震えて堪らない。捕虜の大半は失神か、巨体を縮こませて震えていた。
「ああ♪ 震えているねぇ。うんうん、いろんな感情が素敵な音に、色になって……ああ、早く君の感情や思い、魂も味わい尽くしたいなぁ」
全滅。普通ならそう考えるだろう。人外に会えば、出会ってしまえば弄ばれて、無残な死を迎える。それがこの世界の常識で、そういう物だと教えられた。
だが──。
『
「──っ」
まだ心が折れていないのは、隣にいる花音様が全く諦めていないからだ。敵として見据え、必死に生き残る方法を模索しているのが伝わってくる。
ああ、この方は本当に……どこまで私の期待以上のことをなさるのだろう。
「最近さぁ、感情の揺れが激しくて美味しかったんだけど飽きてきたからさぁ、君が仕えている主人くんも僕の餌にしていいよねえ」
『駄目よ。彼はレイチェルの騎士になるのだから、勝手な真似は許さない』
「ねぇ、主人くん♪」
悪魔に花音様の声が聞こえるはずもなく、ニヤニヤと距離を縮めてきた。
花音様の嬉しいお言葉だったが、そこに『花音様の騎士』も入れて欲しかった。いやもう『花音様の騎士』と呼ばれたい。
「……断ると言ったら?」
「へぇ、僕と対峙しておきながら、精神を保っていられるのか。さすがディルクが仕えているだけはあるねぁ。彼サ、流れの傭兵だったらしいんだけれど、僕の食事を邪魔してくれてねぇ。結構粘ったんだけれど、彼も餌だったお嬢様も一緒に美味しくいただいたんだぁ。あぁ、あの時の絶望の味がたまらなくてぇ。特に彼の絶望が味わい深くて凄かったんだよ。だから、少しずつ感情を食べて、彼に大切な者を増やして、絆が強まった頃にまたパクリって。アハハハハ」
「……もう、やめてください。我輩は……」
「──っ」
ゾッとするほど明るい声で、残酷なことを言う。
ああ、本当に胸クソな奴だ。常日頃ダレン殿を見ていてすっかり忘れていたが、彼の方が特殊なだけで、これこそが人外の本質であり、化け物なのだと再認識する。
「あーー、笑ったらお腹が減っちゃった。まずは前菜をいただこう♪」
「ひっ」
「やめっ」
悪魔は舌なめずりをしたあと、捕縛していた刺客たちに軽く触れた瞬間、何か白い靄が悪魔に吸い尽くされ、一瞬で刺客たちは干からびたミイラになった。全身の水分までも奪われたかのような、恐るべき力。
「んんー。質より量って思ったけど、あんまりだったなぁ。その点、ディルクの主人である君の感情や心は美味しそうだ。あ。そぉーだぁ。ここの領地代理もせっかくだし味見しておこう♪ うんうん、楽しくなってきたぁ」
「!?」
『は?』
その言葉に恐怖より、怒りが上回った。何より俺以上に、ブチギレた人間を目にすることになる。世の中には怒らせてはならない人種がいるのだと痛感した。