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第68話 逃げた先でみつけたこと


 カエルム領地より更に、北の果てにある黄昏の理想郷、パラディーソがある。そこは虹色のオーロラによって外界と遮断された、特別な者しか入ることのできない。

 私とダレンはそこで暮らしている。


 理想郷の入り口は、オーラのようなカーテンの膜がいくつもあって、その膜がこの場所を隠しているという。不思議な場所で常春の土地は恵みに溢れている。

 四季折々の果実や作物が実り、水や動物なども住んで食べることに困ることは無い。生活水準も高く、私とダレンは元図書館だった場所を改装して移り住んでいた。

 毎日、好きなだけ本が読める。


「ダレン、見てみて。『四海万化詩集』を見つけたの」

「それは素晴らしいですね。私は『神話絵と絵画の象徴図鑑』を探し当てましたよ」

「まあ、宗教観点から焚書扱いになった貴重な本ですわよね!」

「ええ。世界に三冊しかない原本です」

「早速読まなきゃ。それと今日はこちらの棚を──」


 そう思って本棚のほうへ振り返る。そうすると黒髪の美少女が脳裏に過った。


『そうだ。この二人、本の虫だったわ! ああ、もう!』

『……って、いい加減にしなさい。本は一人一冊までよ。今は節約しないといけないのだから!』


 そう言って窘められた記憶が、薄らと浮上する。

 


「レイチェル?」

「あ、ううん。ちょっとボーッとしちゃって……」


 可笑しいわ。

 私は一年前に王女であることを返上し、国外追放という形でこの土地にやってきた。王位継承権争いから生き延びた。それなのに、時々その時の記憶が思い出そうにも、曖昧模糊になってしまう。

 当時は骨肉の争いが激化していた──とダレンは教えてくれた。だからきっと私の記憶も抜け落ちてしまっていると。


(でも何故かしら、忘れてはいけない……忘れたくないって思っているのに……)


 胸がざわつく。時が経てばこの気持ちは、薄れるものなのだろうか。でも忘れてはいけない──と、魂が叫んでいる。


(私は何を忘れているの?)


 ふとダレンの瞳がいつもよりも赤い。石榴の瞳がどうしてか輝いて、目が離せない。


「レイチェル。大丈夫だから……だから、泣かないでください」

「え、あ……」


 気づけば視界が歪んで、涙が止まらない。

 どうして?

 どうしてこんなに幸せなのに、苦しいのだろう。


「私だけでは足りないのですか? 私だけじゃ……」


 酷く辛そうな、泣きそうな顔をしているのに、ダレンの瞳から涙は零れない。傷ついているのは間違いないのに、泣けないことが酷く悲しくて、私はまた泣いてしまった。

 どうすれば、いいのだろう。

 どうしたら、この苦しみは言えるのだろう。

 全てを忘れてしまえば?

 でも全てを忘れても、たぶん、私の魂が叫び続ける。

「向き合わないと、進めないわ」と。


 怖い、逃げ出したい、もう休んで忘れてしまいたい。でも、ここで足を止めて終わらせてしまったら、本当に終わってしまう。そんなのは嫌だ。

 そう思って立ち上がったのは、立ち上がれたのは──。


『辛かったら逃げても良いと思うの。逃げることだって戦略的に有りだもの。でもね、逃げた先でも同じことを繰り返したら、結果は同じ。また逃げる。逃げて、逃げて、ぐるぐる似た環境に身を置く。そこから脱却するには自分と向き合って、変えなきゃ行けない。大変だけれどね』


 一歩踏み出す勇気をくれた人。

 ダレンは私を抱きしめる。温かい。

 この人は何から私を守ろうとしているのだろう。

 何から私を遠ざけようとしているのだろう。


 何か大切なことを、少しずつ忘れて言っている気がする。

 ふいにオーラが常に見える夜空に、眩いほどの綺羅星が見えた。手を伸ばしても手が届かないのに、それでも私は──。



 ***



 音が聞こえた──気がした。

 ふと本から顔を上げると、日当たりの良い窓辺の窓が開いていた。カーテンがゆらゆらと動く。穏やかな午後。

 窓の外は緑豊かな木々が目に入り、いくつもの家々が目に留まる。時々耳に賑やかな喧噪と拍手と、ピアノの音が通り過ぎる。

 ここではないどこか。

 遠い昔のような、夢のできごと。

 もう思い出せない。でも瞼を閉じると温かかった何かが、浮かび上がる。


「レイチェル」

「ダレン?」


 ダレンは紅茶と焼き菓子をトレイに乗せて、その場に佇んでいた。

 いつも蕩けるような優しい笑顔を向けるのに、なぜか悲しい目をしている。トレイをひっくり返して、ソファに座っていた私を抱きしめた。

 どうして?

 怯えて震える彼の頭を優しく撫でる。


「ダレン。どうしたの?」

「日差しが当たる窓辺で本を読む君がとても美しくて……今にも光に包まれて消えそうだったから……」


 ダレンは怖がりだ。

 ううん、違う。たぶん、自分以外の大切なものができたことで、壊れてしまうのを、失うのを極端に恐れている。


「ダレン、私は──」

「もう貴女の瞳が以前のように輝いていなくても、アカシックレコードに足を踏み入れることができなくても……いい。全部を諦めても……レイチェル、貴女が死ぬのは、それだけは耐えられない」

「ダレン、人はいつか死ぬわ。いずれお別れはやってくる」

「なら、私が──」

「それでも終わりはいつかはやってくるの。でもそれを怯えて暮らすのでは無くて、自分のやりたいこと、したいことをして精一杯生きたい」

「……駄目です」

「ダレン、?」

「駄目ですっ! そんなことをすれば、貴女は今度こそ心も体も死んでしまう。一度目はカノン殿が身代わりになった。その時に貴女は──」

「そう。私にとって、とても大切な人がいたのね」


 もう思い出せない。姿も、容姿も、声も──。


「『Felicitatem tibi.』」


 後頭部を殴られたような、そんな衝撃が走った。


『いい、レイチェル。歌はね不滅なの。たとえ私が死んでも私の歌は、心は、思いは生き続ける。その人の魂に歌の記憶が宿り、失われて、忘れさられても何度でも歌は蘇る──歌って凄いのよ!』


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