カエルム領地より更に、北の果てにある黄昏の理想郷、パラディーソがある。そこは虹色のオーロラによって外界と遮断された、特別な者しか入ることのできない。
私とダレンはそこで暮らしている。
理想郷の入り口は、オーラのようなカーテンの膜がいくつもあって、その膜がこの場所を隠しているという。不思議な場所で常春の土地は恵みに溢れている。
四季折々の果実や作物が実り、水や動物なども住んで食べることに困ることは無い。生活水準も高く、私とダレンは元図書館だった場所を改装して移り住んでいた。
毎日、好きなだけ本が読める。
「ダレン、見てみて。『四海万化詩集』を見つけたの」
「それは素晴らしいですね。私は『神話絵と絵画の象徴図鑑』を探し当てましたよ」
「まあ、宗教観点から焚書扱いになった貴重な本ですわよね!」
「ええ。世界に三冊しかない原本です」
「早速読まなきゃ。それと今日はこちらの棚を──」
そう思って本棚のほうへ振り返る。そうすると黒髪の美少女が脳裏に過った。
『そうだ。この二人、本の虫だったわ! ああ、もう!』
『……って、いい加減にしなさい。本は一人一冊までよ。今は節約しないといけないのだから!』
そう言って窘められた記憶が、薄らと浮上する。
「レイチェル?」
「あ、ううん。ちょっとボーッとしちゃって……」
可笑しいわ。
私は一年前に王女であることを返上し、国外追放という形でこの土地にやってきた。王位継承権争いから生き延びた。それなのに、時々その時の記憶が思い出そうにも、曖昧模糊になってしまう。
当時は骨肉の争いが激化していた──とダレンは教えてくれた。だからきっと私の記憶も抜け落ちてしまっていると。
(でも何故かしら、忘れてはいけない……忘れたくないって思っているのに……)
胸がざわつく。時が経てばこの気持ちは、薄れるものなのだろうか。でも忘れてはいけない──と、魂が叫んでいる。
(私は何を忘れているの?)
ふとダレンの瞳がいつもよりも赤い。石榴の瞳がどうしてか輝いて、目が離せない。
「レイチェル。大丈夫だから……だから、泣かないでください」
「え、あ……」
気づけば視界が歪んで、涙が止まらない。
どうして?
どうしてこんなに幸せなのに、苦しいのだろう。
「私だけでは足りないのですか? 私だけじゃ……」
酷く辛そうな、泣きそうな顔をしているのに、ダレンの瞳から涙は零れない。傷ついているのは間違いないのに、泣けないことが酷く悲しくて、私はまた泣いてしまった。
どうすれば、いいのだろう。
どうしたら、この苦しみは言えるのだろう。
全てを忘れてしまえば?
でも全てを忘れても、たぶん、私の魂が叫び続ける。
「向き合わないと、進めないわ」と。
怖い、逃げ出したい、もう休んで忘れてしまいたい。でも、ここで足を止めて終わらせてしまったら、本当に終わってしまう。そんなのは嫌だ。
そう思って立ち上がったのは、立ち上がれたのは──。
『辛かったら逃げても良いと思うの。逃げることだって戦略的に有りだもの。でもね、逃げた先でも同じことを繰り返したら、結果は同じ。また逃げる。逃げて、逃げて、ぐるぐる似た環境に身を置く。そこから脱却するには自分と向き合って、変えなきゃ行けない。大変だけれどね』
一歩踏み出す勇気をくれた人。
ダレンは私を抱きしめる。温かい。
この人は何から私を守ろうとしているのだろう。
何から私を遠ざけようとしているのだろう。
何か大切なことを、少しずつ忘れて言っている気がする。
ふいにオーラが常に見える夜空に、眩いほどの綺羅星が見えた。手を伸ばしても手が届かないのに、それでも私は──。
***
音が聞こえた──気がした。
ふと本から顔を上げると、日当たりの良い窓辺の窓が開いていた。カーテンがゆらゆらと動く。穏やかな午後。
窓の外は緑豊かな木々が目に入り、いくつもの家々が目に留まる。時々耳に賑やかな喧噪と拍手と、ピアノの音が通り過ぎる。
ここではないどこか。
遠い昔のような、夢のできごと。
もう思い出せない。でも瞼を閉じると温かかった何かが、浮かび上がる。
「レイチェル」
「ダレン?」
ダレンは紅茶と焼き菓子をトレイに乗せて、その場に佇んでいた。
いつも蕩けるような優しい笑顔を向けるのに、なぜか悲しい目をしている。トレイをひっくり返して、ソファに座っていた私を抱きしめた。
どうして?
怯えて震える彼の頭を優しく撫でる。
「ダレン。どうしたの?」
「日差しが当たる窓辺で本を読む君がとても美しくて……今にも光に包まれて消えそうだったから……」
ダレンは怖がりだ。
ううん、違う。たぶん、自分以外の大切なものができたことで、壊れてしまうのを、失うのを極端に恐れている。
「ダレン、私は──」
「もう貴女の瞳が以前のように輝いていなくても、アカシックレコードに足を踏み入れることができなくても……いい。全部を諦めても……レイチェル、貴女が死ぬのは、それだけは耐えられない」
「ダレン、人はいつか死ぬわ。いずれお別れはやってくる」
「なら、私が──」
「それでも終わりはいつかはやってくるの。でもそれを怯えて暮らすのでは無くて、自分のやりたいこと、したいことをして精一杯生きたい」
「……駄目です」
「ダレン、
「駄目ですっ! そんなことをすれば、貴女は今度こそ心も体も死んでしまう。一度目はカノン殿が身代わりになった。その時に貴女は──」
「そう。私にとって、とても大切な人がいたのね」
もう思い出せない。姿も、容姿も、声も──。
「『Felicitatem tibi.』」
後頭部を殴られたような、そんな衝撃が走った。
『いい、レイチェル。歌はね不滅なの。たとえ私が死んでも私の歌は、心は、思いは生き続ける。その人の魂に歌の記憶が宿り、失われて、忘れさられても何度でも歌は蘇る──歌って凄いのよ!』