生まれた時から、ひとりだった。
そこに居るだけで森が生い茂り、清涼な空気に満ちていく。
青々とした美しい森と青空。それから暫くして遠くから湯気が上がるのが見えた。空を舞い森の入り口付近に人の集落があった。
獣でも、天使や悪魔などの人外とも異なる脆弱な生き物。複雑な考えを持ち、時に同族と殺し合うよく分からない生き物。
森に人が入らないように迷宮のように入り組んだものにして、威圧にも似た気配を漂わせておいた。物々しいのは好きではない。
関わらないように──。
ただ遠くから人を見るのは、悪くなかった。
すぐに泣いて、怒って、言い合いをして、かと思えば笑い合って──よく分からない。
(人はどんなことを考えているのだろう? あっという間に年老いて、何も残さずに死んでいく……。その瞬きほどの生に何の意味があるのだろう?)
そんなことを考えていたある日、狼に襲われて森深くまで逃げてきた娘と出会った。紫色の美しい長い髪、葡萄酒のような瞳に、最初人ではなく葡萄の精霊かと思ったほどだ。
彼女は一晩だけ休む場所が欲しいと言いだしたので「人間の生活について話してくれるのなら」と提案した。
「そんなことでよければ!」と、眩しいほどの笑顔で答えた。加護を与えた訳でもないのに、どうして笑ったのだろうか。分からない。
胸が、心臓が不思議なほど弾む。
これはなんだろう。分からない。
「君から葡萄の匂いがするのに、君は葡萄の精霊ではないのだな」
「ふふっ、この時期はワインを作るので、葡萄踏みをするの。だからその匂いが付いたのだと思います」
「わいん?」
彼女の単語は聞き慣れないものばかりだ。質問する度に分からないことが増えていく。
ヴァイオレットというらしいが、長いのでヴィーと呼ぶことにした。
「神様のお名前は、あるのでしょうか?」
「神の名を聞くことは求婚を意味するらしい」
「ふぇ!?」
めまぐるしく笑い、驚き、顔を青ざめる。なんとも忙しない。でも近くでつぶさに観察するのはなかなか面白いし、時間があっという間に過ぎていった。
一夜だけ。
そのために人は脆いからと人の家に近い建物を作った。人は眠るらしいのでいくつもの羽毛で寝床を用意し、人は食事を取らなければ死ぬらしいので果物を与えた。
「こんなによくしてもらって申し訳ないです」
「人は脆いし、すぐに怪我をするし、あっという間に成長しておいて死ぬ」
「神様と比べたらそうかもしれませんね」
ヴィーとの会話は心地よかった。よく分からない単語もあり、それを尋ねるとヴィーは嬉しそうに話す。他愛のないやりとりだというのに、気分が良い。
ほんの少し芽生えた人への感情。
それを理解したくてヴィーを集落に返した後も、何度か会いに行った。村長と呼ばれる者たちは、額を大地にこすりつけるように跪く。平伏、敵意はないと言いたいのだろう。
ヴィーを通して「平伏は不要」と伝えた後は、唐突に宴となった。やはり人の考えていることはよく分からない。ただヴィーの言っていた「わいん」というものを口にすることができた。芳醇な葡萄の香りは、悪くなかった。
この集落周辺に葡萄が実るよう加護を与えることにした。
気まぐれだった。
「神様!」
「…………」
その気まぐれで、私は結果的に集落を滅ぼした。何度目だったか、集落が大きくなり、祭りも年々大々的になって捧げ物が増えた。別に捧げ物などに興味は無い。ただヴィーが嬉しそうに渡すのが、こう胸がポカポカして春の日差しに似た感覚を思えたから。
神様、と。そう呼ぶ声が悪くないと思ったから。
たったそれだけだった。
それだけだったのに、
「偉大な神にふさわしい花嫁を」
「豊穣の神に、ふさわしい捧げ物を」
何を勘違いしているのだろうか。
私がいつ、なにかを望んだ?
どうして、私の楽しみを壊す?
この腹の底から湧き上がるどす黒い感情は──なんだ?
気づけばその集落の者たち全てを葡萄の木に変えていた。誰も彼も赤紫色の痣に怯え、徐々に木々になることに絶望し、私に許しを乞う。
「ヴィーを殺したお前たちの言葉を、なぜ聞かなければならない? ヴィーが居なくなったお前たちに価値などないのに」
私はもっとヴィーと話したかった。もっと色んなことを教えてほしかったのだ。
なぜヴィーだったのか、ヴィーじゃないと嫌なのかは、分からない。ただ屈託なく笑った彼女の笑顔が、網膜に焼き付いて離れないのだ。
ヴィーを精霊に転族させれば、この胸に渦巻く感情の答えを教えてくれるだろうか。
「ヴィー」
でもヴィーは精霊にはならなかった。体に魂が残っていなかったからだ。本来なら一日二日なら魂が残っていることだってあるのに、ヴィーは違った。
どうして。
ヴィー、この気持ちがなんなのか、この思いは何というのか。私には分からないし、ヴィー以外の人から聞きたくない。
魂は流転する。待ち続ければ会えるだろうか。
考えても答えは出ない。誰かに、ヴィー以外の誰かに聞けば答えが出るだろうか。
気まぐれで旅の神官に声を掛けた。選んだ理由は単にヴィーと同じ紫色の髪をしていたから。それだけだった。
「──なるほど。それで私は逆さ吊りにされて、神様のお悩み相談を強制的にさせられている、と」
「それでどうすればヴィーに会える?」
「その上、まったく私の心境とか状況とか無視ですか、そうですか」
「やはりヴィーでないと、人と話をしても面白くない」
「いやー、それはヴィーさんという方のコミュニケーション能力が、非常に高かったからかと。そういった魂レベルが高い方は、神々の使いや、役割を持って、この世界にいると言われています。たとえば
「アカシックレコード……。ああ、全ての情報の保管庫か」
「ええ、そうです。……もっとも、そう言った心の問題なら自分自身で気づくしか無いと思うのですが」
「アカシックレコード」
「あの、もしもし? 聞いています?」
思い返せばヴィーは物知りだった。人の知識力は高いと思っていたが、あれはヴィーが特別だった可能性が出てきた。
私は神であっても万能でもないし、知識にも偏りがある。今までは知識などどうでもよかったし、人も遠目で見ている程度でよかった。
けれどヴィーが与えてくれたこの感情を、気持ちがなにか知りたい。アカシックレコードなら全ての情報が詰まっている。そこに接続できる魂なら、ヴィーと同じく何か分かるかもしれない。
ヴィーに会いたいけれど、出会える可能性は限りなく低いだろう。
それならアカシックレコードの運び手を探す。どれだけの時間が掛かっても、私にとってはさほど変わらない。
ただ、ほんの少しだけ──アカシックレコードの運び手と出会う未来を想像したら、口元が緩んだ気がした。
それからエドガー・リスティラと名乗った神父に領地管理を任せた。神父から領主へ。アカシックレコードの運び手が現れた時の手順は伝えておいた。
それから──数百年。
私にとっては、さほど時間は経っていなかったが、人の文化は大きく成長を遂げワインはより上等な飲み物となった。
「さて。赤紫色の痣に気づき、対処法ぐらいアカシックレコードの運び手なら分かるだろう」
次こそはアカシックレコードの運び手であってほしいものだ。
そうすれば今度こそ、この気持ちに名前を付けられる。