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23、ぼくのおかあさま

 父と母――皇帝と皇妃が華山派をもてなしている間。

 三歳の陽奏ようそうは皇子は、教育係の瑞軒ずいけんや侍女に囲まれ、平穏無事に過ごしていた。


 穏やかな天候。

 過ごしやすい室内。ご機嫌取りの玩具に果物。

 けれど、皇子の心は雨模様。


 教育係の瑞軒ずいけんは皇子に慣れていて、皇子の心が手に取るようにわかる。

 けれど、あやすのは苦手だった。


 人には向き不向きがある。

 宦官の瑞軒ずいけんは皇子が嫌いではないが、幼い児童と接する仕事に自分が向いているとはどうも思えないのだった。


陽奏ようそう殿下。本日は大切なお客様がお越しですから、このお部屋で私と過ごしましょう」


 床に膝をついて視線を下げながら、脳内ではなぜか辞職願いの文面を考えてしまっている。

 辞職しても他の仕事の当てはない――。


「やぁだ」

「文字を書く練習をいたしましょう。まずはお母様のお名前を書いてみるのはいかがですか。殿下の大好きなお母様ですよ。お絵描きをなさっても構いませんよ」

「やぁーだぁー」


 自分は去勢され、子供を作れない。

 皇帝夫妻や皇子の世話をしていると、そんな自分が自覚されてならない。


 瑞軒ずいけんは、どうも日々の合間にモヤモヤとすることがある。

 性的な器官をなくしたことで心身が不安定になる症状があるので、そのせいかもしれない。

 宦官とは、繊細で歪な生き物なのだ。

 どこか満たされないものを抱えていて、しかし発散できない。

 同僚の中には、侍女と良い仲になり、昂る衝動のまま女体を舐めたり撫でまわしたり……噛みついて相手を傷つけてしまう者もいる。

 心というのは不確かなもので、気づいたら暴走するし、病む。


 自分もおかしくなってしまうかもしれない。

 それなのに、国家の至宝である世継ぎの皇子の世話をしているのだ。

 恐れを感じながら、瑞軒は平静を装った。


「殿下、さあ、こちらへどうぞ」


 紙と文筆道具を文机に用意して呼ぶと、「やだ」と言いつつ陽奏ようそうは筆を取ってくれた。

 侍女が明るい声を上げる。


「殿下が筆をお取りになったぞ」

「まあ殿下。姿勢が素晴らしくお美しいですわ」

「格好いいですわ、殿下」


   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


 ぼくを褒めたいのか。

 なら、褒めさせてあげりゅ。


 陽奏ようそうは三歳にして彼らの仕事を理解していた。

 褒め係だ。

 この大人たちは、ぼくが筆を転がしても褒める。ぼくがえらいからだ。


「むん」


 口を真一文字に結んでシュッと筆を動かすと、「気迫がすごいですわ」と侍女が褒めてくれる。

 ちょっと気分がいい。


 陽奏ようそうは真っ白な紙にすいすいと筆を踊らせた。

 教育係は侍女たちと一緒に筆運びを見守り、「ほう」と唸る。


「これは……女夜叉めやしゃでございますな……私が先日話した怪談がお気に召されたようで、話した甲斐がございます。おどろおどろしさが表現できていて、御年おんとし三歳とは思えぬ画力の高さ……殿下には芸術の才があるご様子で……」


「――え?」


 女夜叉めやしゃとは、女の姿をした妖怪だ。

 さも理解者のようなしたり顔で語る瑞軒ずいけんとは対照的に、陽奏ようそうは目を怒らせた。


「……これは! おかあさま! なの!」

「――あっ……」


 ぼくは、おかあさまを、うちゅくしく描いたの!

 めやしゃと間違えるなんて、ゆるさない!


 陽奏ようそうの機嫌は一瞬にして地に落ち、その後しばらく、臣下と口を利かなかった。


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