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24、不穏な気配を感じましてございます

 ――これが夏国かこくの皇帝夫妻か。


 華山派の道士、石中流せきちゅうりゅうは、皇帝夫妻の様子を油断なく探っていた。


 皇帝夫妻は美男美女で、完成された二人一組の芸術作品のよう。


 若き皇帝は漆黒の髪を高く結い上げ、金と朱で彩られた冕冠べんかんと皇帝衣がよく似合っている。

 威厳があり、ゆったりとした余裕を感じさせる雅やかなたたまいだ。

 戦場で見かけた際には甲冑姿で雄々しき武人然としていたものだが、身に纏う衣裳で大きく印象が変わる。


 その傍らに立つ皇妃、華凛かりん妃は、白雪しらゆきのような肌につややかな黒髪がよく映える美女である。

 紅梅の花びらを思わせる唇や目じりに引いた紅化粧が鮮やかだ。

 まつ毛は長く、黒曜石のように澄んだ瞳は、優しげ。

 これほどの美貌が存在するのか、と現実感が薄く感じるほどの美しさ。

 しかも、ただの美貌ではない。

 彼女の周囲だけ空気が澄み渡っているような、特別な存在感がある。


 「天女皇妃様」と呼ばれるのも納得だ――まるで本当に、人の世を超越した天仙のように、人間離れした美妃ではないか。

 近くを通った際は、形容しがたい芳香もした。

 並みの男であれば匂いだけでくらっとして心を奪われるような、そわそわしてしまうたぐいのいい匂いだった。


 ……しかし。

 石中流せきちゅうりゅうは心の中で息をのむ。


 師父は言った。

『古い伝承に、天からの使いと偽り為政者をたぶらかした傾城の妖狐の話もある。油断せぬように』


 あの怨霊は言った。

『恨めしい、恨めしい。ああ、恐ろしいこと……この国を守る者……上に立つ者こそ……真の悪である……』


 人間とは思えぬ美貌の妃が、もしも心清らかな天仙ではなく、悪逆の妖狐であれば?

 もしそうなら、とんでもなく厄介で、危機感を最大級に持って対処すべき事案ではあるまいか?


 正派、華山派の道士として、このような女性には、油断してはならない。

 どんなに美しかろうと、いい匂いがしようとも、色香に心惹かれて浮かれてはならない。

 心の目を研ぎ澄ませ、真偽を見定めなければならない……!


 石中流せきちゅうりゅうが心の中で考えをまとめていると、皇帝から声がかかった。


石中流せきちゅうりゅう、前に出よ」


 ――ちりん、と鈴が鳴ったのは、そのときだった。


   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


 華凛かりんが思うに、拝龍殿はいりゅうでんは険悪な雰囲気になっていた。


「貴公、思うことがあるようだな」

「へ、陛下……」


 最初のうち、両者は穏やかに友好的に談笑していた。


 武侠の徒、華山派は、普段は山に籠り、修行に打ち込んでいる修行者たちだ。

 彼らは天道を意識しており、世俗の権力におもねることがない。

 そんな華山派が偶然とはいえ国家の一大事に共に戦い、助けてくれたのだ。素晴らしいことである。

 この縁を大事にして、今後も友好的な関係でありたい。きっとそんな関係が本日以降、確たるものとして構築できる。


 ……と、思っていたのだが。


 皇帝と華山派たちの雰囲気は、緊迫したものになった。

 どうしてこうなったのか――華凛かりんは順を追って出来事を振り返った。


 まず、華凛かりんは道士の一人を気にしていた。


 なごやかに語り合う夫らの声を聞きながら、存在感薄く、無難な微笑を湛えて拝聴の姿勢を取りながら、「なんだかあの道士様だけ、妙に気になるわ」とチラチラ様子を窺っていた。

 黒いもやもやとした影は、見えなくなった。

 目の錯覚だったのか――それとも?


 疑念を持て余していると、皇帝滄月そうげつ華凛かりんに視線を向けた。


華凛かりん。先ほどから石中流せきちゅうりゅう殿を気にかけているようだが、彼になにか?」

「……いえ……、なにも……」


 表情は変わらないが、華凛かりんには夫の機嫌がわかった。不機嫌だ。

 滄月そうげつ間男まおとこを見るような底冷えのする視線を石中流せきちゅうりゅうに向けた。


石中流せきちゅうりゅう、前に出よ」


 皇帝の命じる声に、華山派が緊張を漲らせるのがわかる。

 「お前はなにをやらかしたのだ」という仲間道士の視線を浴びながら石中流せきちゅうりゅうが前に進み出る。

 しかも――、


(あっ、また影が)


 華凛かりんは息を呑んだ。

 頭を垂れる石中流せきちゅうりゅうの足元で、彼の影が、もさりと動いた――見間違いではない。確かに動いたのだ。嫌な感じのする不穏な黒い影が。

 華凛かりんは背筋が凍る思いであった。


 そのとき。


 ――ちりん。


 石中流せきちゅうりゅうの腰に下げられていた鈴が鳴った。

 たった一度だけ。

 それだけで、影はスッと動きを静めて、不穏な気配を消した。


「……!」


 石中流せきちゅうりゅうは、顔をこわばらせた。

 そして、意を決した様子で顔を上げ、声を発した。

 その眼差しは真剣で、目の下には隈がある。

 尋常ではない必死な様子に、華凛かりんは「このお方、大丈夫かしら」と心配になった。気味の悪い影といい、あの鈴の音といい、きっとなにかあるのだ。


「皇帝陛下、発言をお許しください。私、石中流せきちゅうりゅうは、この拝龍殿はいりゅうでんに不穏な気配を感じましてございます。たった今、鈴が鳴りまして……」

「なに?」

「――不穏な気配、だと? 鈴とはなんだ?」


 拝龍殿はいりゅうでんに居並ぶ高官たちの間に、ざわめきが走る。


 「不穏?」


 ひときわ年配の高官が、憤然とした面持ちで石中流せきちゅうりゅうを睨みつけた。


 「ここは神聖なる皇帝陛下のおわす拝龍殿はいりゅうでん。皇統正しき天子が治める、選ばれし地。この宮廷に、不穏な気配だと……──貴様、一体何を言い出すつもりか!」

 「まこと、無礼な……!」


 別の高官も、まるで悪臭でも嗅いだかのように顔を歪めて言葉を放つ。


 「華山派の道士といえど、慎むべき言葉というものがあるはずだ。この場にケチをつけるような発言、聞き捨てならぬ」


 ああ、大変。

 それまで穏やかだった空気が、たちまち冷え込んでいく。


 はらはらと見守る華凛かりんの視線の先で、石中流せきちゅうりゅうは、怯むことなく頭を垂れたまま言葉を継いだ。


「恐れながら申し上げます。我が身は決して、この場を貶めるつもりでは──」

「ならば、なぜそんな戯言を口にした!」


 高官の怒気をはらんだ声が遮った。


 「不穏な気配? 陛下の御前に重臣たちが揃うこの場に、何のわざわいがあるというのだ! 無礼にも程がある!」

 「道士よ、慎め!」


 糾弾の声が相次ぐ中、皇帝滄月そうげつは冷ややかに視線を向けた。


 「……石中流せきちゅうりゅう。貴様、我が宮廷に怪しげな言葉を投げかけるつもりなら、それ相応の覚悟があるのだろうな?」


 静かに告げられたその声には、重苦しい威圧が含まれていた。

 華山派の道士たちも、緊張に息を呑む。


 「……!」


 石中流せきちゅうりゅうの拳が、わずかに震える。


 そこへ、仲裁するような落ち着いた声を挟んだのは、華山派の中でも立場が高く、一行の首魁しゅかいである人物だった。

 『一代弟子にして大弟子のりゅう剣鋒けんほう』――見るからに模範的で清廉な道士、という雰囲気の彼は、年齢は高齢だと聞くが、外見が若々しい。

 「人よりも仙人に近付きつつあるのだ」と言われれば「それっぽい」と頷いてしまう人物である。


「まあまあ、お待ちください、みなさま」


 りゅう剣鋒けんほうは、弟子である石中流せきちゅうりゅうがなぜ無礼なことを言ってしまったのかを説明してくれた。

 声は若いが、どこか安心感のある、のんびりとしていて好好爺然とした喋り方だ。

 そしてなにより、がやがやと騒がしいのに彼の声だけがよく通り、皆がしんと静まり返って耳を傾けてしまう不思議な力がある……。


「わしらは普段、女人禁制で何十年と山奥に籠っておりますでのう。こちらの夏国の皇妃様はお噂通りに天女のごとき美しさで、未熟な弟子はのぼせてしまい、そこに皇帝陛下にお声をかけられたものですから焦って失言をしてしまったのでしょうなあ。ああ、情けないことです……まだまだ修行が浅く、その場に適した振る舞いができぬのですよな。大変失礼いたしました」


 謝罪するりゅう剣鋒けんほうに、場の空気が柔らかになった。



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