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25、「あ、れいかゆうだ」


 皇帝、滄月そうげつは無表情気味に「ふむ」と冕冠べんかんの垂れ飾りを揺らした。


「鈴が鳴った、とわけのわからない妄言を言っていたな。俺には鈴の音など聞こえなかったが、俺の妃の美貌にのぼせて誤魔化したのか。仙人を目指す修行者にしては俗物すぎて、呆れる……」 


 おや、と華凛かりんは不思議に思った。

 まるで鈴が鳴っていないような物言いだ。

 鈴は確かに鳴っていた――華凛かりんにはその音が聞こえたのに。


 同じ疑問を抱いたのか、石中流せきちゅうりゅうが「鈴が鳴ったのは本当でございます」と言い返している。


「陛下、恐れながら……この鈴は破邪鈴はじゃりんと申します。邪悪なもの、魔性の存在を感知したときのみ鳴る鈴でございます」

「ほう。その鈴が鳴り、この場に魔性の者が潜んでいると思った、というのか? そして俺の耳は腐っていて、清らかな鈴の音を聞き逃していると?」

「い、いえ。この鈴は……」


 石中流せきちゅうりゅうがなにか言い訳しようとしたとき、りゅう剣鋒けんほうが口を挟んだ。


「黙れ、石中流せきちゅうりゅう


 静かな一言に、石中流せきちゅうりゅうが口を押さえる。

 その表情から、華凛かりんは「もしかして声が出せなくされてしまったのでは」と思い至り、どきどきした。

 りゅう剣鋒けんほうは、超常の術が扱える術師なのだ。


 わたくしたちは今、その不思議な能力を見ているのかも――。


 華凛かりんだけでなく、他の者も同じ考えに至った様子で口をつぐみ、二人の華山道士を注視している。

 そんな空気の中で響くりゅう剣鋒けんほうの声は、ゆったりとしていた。


「ほっほっほ。わしの耳にも、鈴の音は聞こえませんでしたぞ。皇帝陛下、弟子は緊張しており、鳴っていない音を聞いたと錯覚したのでありましょう」

「そうか」


 ……鈴は、聞き間違い?


 華凛かりんは困惑を深めた。


 一方、臣下たちは「まったく、無礼な弟子だ」と声を上げ始めている。


 夏国には、「皇帝の慧眼けいがんは地上の隅々まで悪を見逃さない」という言葉がある。

 その皇帝のすぐ近く、謁見の間に邪悪が潜んでいるとなれば、皇帝の権威が落ちてしまう。とんでもない無礼な妄言だ。


 皇帝、滄月そうげつは手を振り、一切の声を静めた。


剣鋒けんほう殿。真実を言って欲しいものだな」


 その眼差しには疑念があった。


「もしも臣下になりすました魔性の者がいるならば、この機会にあばくべきだ。清浄な道術を扱う華山派道士たちが闇に気付き、祓ってくれるのはありがたい。隠す必要はないので、なにかあれば教えてほしい」


 「鈴が鳴ったのでは?」「りゅう剣鋒けんほうは皇帝の機嫌を取るため、弟子が正しいのに鈴が鳴っていないことにしようとしているのでは?」という疑念だ。

 青年らしさのある、少し青臭い気配をのせて、皇帝は真剣に言った。


「国家を正常に運営する国主としての正しい姿勢は、無礼だと怒ることではなく、邪悪を見つけ出して排除することだ。俺はそう考えるが、いかがか」


「おお、おお。皇帝陛下……」


 りゅう剣鋒けんほうは嬉しそうに眼を細めた。


「よきお考えだと思いますぞ」


 りゅう剣鋒けんほうは「よきお考えでいらっしゃいます」と皇帝を褒め称えたのち、携行していた荷物から酒壺を取り出してみせた。


「私が清めの力を籠めた雄黄酒ゆうおうしゅでございます。人間に化けている魔性の者は、これを苦手とするのです……まずは、貴き皇帝夫妻の御身をお清めするため、献上申し上げたく存じます」


 華凛かりんはぎくりとした。


 雄黄酒ゆうおうしゅは蒸留酒の白酒と雄黄などを混ぜた飲み物で、疫病退散や厄除けに効果があると言われている。

 この夏国では、夏季の端午節たんごせつ雄黄酒ゆうおうしゅを飲んだり、撒いたり、指につけて子どもの額に「王」という字を書き、邪気除けをする習慣がある。

 ――ただし、華凛かりん雄黄酒ゆうおうしゅが苦手だった。

 実家、孫家で端午節のたびに「苦手でつらい」と思っていて、妹の瑶華ようかなどは姉が苦手なのを知って嬉しそうに揶揄ってきたものだ。


「杯も清めてございます。さあ、この雄黄酒ゆうおうしゅをひとくち、お飲みくださいますよう」


 ……ここで「飲めない」などと言えば、空気は最悪になってしまう。

 しかも、下手すると「魔性の者なのでは」と疑いも持たれてしまいかねない流れではないか。


(つ、つらいけど……国家のため。これも、公務……これくらいの我慢、なんてこと、ない……) 


 華凛かりんは平静を装い、心のうちで西王母への祈りを唱えながら雄黄酒ゆうおうしゅ入りの杯を傾けた。苦手な味に顔を歪めてしまいそうになる。嚥下がつらい。しかし――耐えた。


「……ごちそうさまで、ございました」


 なんとか微笑を維持して礼を言ったところで、華凛かりんは気づいた。

 杯の色が変わっている……。


 それを見て、りゅう剣鋒けんほうが眉を上げた。華凛かりんは嫌な予感がした。


「妃様が触れた杯の色が変わるとは……これは……?」


 まさか、魔性の証拠だとでも?

 華凛かりんが青ざめたとき、拝龍殿の扉が開き、緊迫した空気を壊すあどけない声が響いた。


「おかあさま~~っ!」

「殿下、いけません……っ」


 ――陽奏ようそうだ。


 三歳の皇子は、元気いっぱいに駆けてきた。後ろからは、おろおろした様子の臣下たちが青い顔で頭を下げたり全身を小さく縮こまるようにして付いて来る。

 来てしまったのか――驚きつつ我が子を迎えた華凛かりんは、陽奏ようそうが杯を見て呟いた声に目を丸くした。


「あ、れいかゆうだ」

「え?」

「こえも、けいりんがくえたの?」


 華凛かりんの脳裏に、紅家の学友こう珪林けいりんと紅家からの贈り物の記憶が蘇る。


『この塗料は、霊華釉れいかゆうといいます。温度変化に応じて色が変わる大変珍しい塗料なのです』


 杯を持ち上げ、華凛かりんは告げた。


「こ、……この、杯は、霊華釉れいかゆうで彩られています。お……温度変化で、……色が変わるのですわ」


 だから色が変わったのだ。

 仕掛けを言えば、全員が「なんだ」と安堵した。


「……りゅう剣鋒けんほう。今のは、見ようによってはつまらぬ仕掛けを用いて妃を魔性の者に仕立て上げようとしていたようにも思える。よもや、そのようなことはあるまいな」


 皇帝の声が低くひんやりと響く。

 愛らしい皇子の登場と杯の真相にゆるんだ拝龍殿の空気は、ぴんと張り詰めた。


「めっそうもございません。陛下。杯の色が変わったのは霊華釉れいかゆうによるものだ、と、これから説明しようとしていたところだったのでございます。ご不快に思われたのでしたら、お詫び申し上げます」 


 りゅう剣鋒けんほうは恭しく頭を下げ、「魔性の者はただいまの皇子殿下のご登場と同時に、扉から逃げて行ったように感じます」などとうそぶいた。


「さようか。まあ、そういうことにしてやるが、二度目はないぞ」


 皇帝、滄月そうげつ雄黄酒ゆうおうしゅに露骨に嫌そうな顔をして「この味はあまり好まぬ」と突っ返し、謁見の終了を告げた。


「皇子も母が恋しいようだし、俺も執務の時間だ。この件については、またの機会に話すとしよう。大切なのは……夏国の皇帝は、邪派を許さず、正派華山派に恩義を感じ、今後も友好な関係でありたいと思っているということだ。よろしく頼む、戦友たちよ」


 こうして、若干の不穏な気配もありつつ、謁見は幕を下ろしたのだった。


「……陽奏ようそうのおかげで、お母様、助かりましたわ。……ありがとう」


 我が子を抱きしめて感謝を告げると、陽奏ようそうは嬉しそうに母にしがみついた。


「ほんとぉ? ぼく、おかあさまを、たすけたぁ? えへへ。おかあさま、こまってたの?」

「ええ、ええ。陽奏ようそうのおかげで、解決しましたの」

「わぁっ、やったぁ!」


 ……ああ、なんて可愛いのかしら。


 緊張も疲労もすべてが我が子の愛らしさに癒されて、華凛かりんはほっと一息をついた。

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