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27、華山派道士と女の幽鬼


 一方その頃、華山派にあてがわれた客間では、石中流せきちゅうりゅうが師父と弟弟子に頭を下げていた。


「石中流、なぜあのような無礼を申したのか」

「師兄、肝が冷えましたよ……っ」


 夏国の重臣や皇帝夫妻の前では好好爺こうこうやのように振る舞っていた師父、りゅう剣鋒けんほうは、冷ややかであった。話し方も人が変わったように厳しいものに変わっている。


「師父。……あ、あれは……っ」


 石中流せきちゅうりゅうは項垂れた。

 非難されて己の行動を客観的に顧りみてみれば、確かに問題があったような気もする。


 思い出すのは、皇妃華凛かりんの驚いた顔――長い睫毛と紅の化粧に彩られた漆黒の瞳。

 あの瞳を思い出すと、胸がざわざわとする。

 頬が熱くなり、じっとしていられない気分になる。

 まるで、一目ぼれだ。


(私が間違っていたのか。それにしても、あの妃の美しさは……まことに普通の人間なのだろうか……あのような美しい女性がいるのか……)


 あれは、魔性の美しさではないか。

 老若男女問わず、暴力的なまでの美で心を奪い、執着させる――、


 石中流せきちゅうりゅうは生唾を飲み下し、師父に頭を下げた。


「師父よ。不肖の弟子の妄言をお許しください……」


 師父は、静かに頷いて発言を待ってくれる。

 ここで「自分の頭がどうかしていました」と言えば、それで終わる話だ。

 おそらく師父は許してくれるに違いない。


 だが、その場しのぎの謝罪で終わらせたくない、気が済まない――そう思ってしまう自分がいる。


 自分はおかしいのではないか。

 そんな自覚を抱き、恐れつつも、石中流せきちゅうりゅうは皇妃への謎の執着と探求心を捨てることができなかった。


「恐れながら、師父……!」


 石中流せきちゅうりゅうは両手を床に付き、額を床に擦り付けて想いを吐いた。


「わ、私は、あの妃がただの女人には思えぬのです。私は、師父に預かっていた破邪鈴はじゃりんが鳴ったように思うのです……っ!」


 師父が首を振るのが無慈悲に見えた。

 弟弟子は? 

 ――し、視線を逸らされている。


「今日はもう休むといい。疲れているのだろう」


 師父の言葉は優しさの中に突き放す気配をくるんでいた。


 石中流せきちゅうりゅうは華山派の一団の中で病人でも見るような目で腫れ物に触るように扱われ、床に就いた。


 すると、その晩、枕元に幽鬼が現れた。



   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


 ――その晩。


 夜は深く、空には雲が垂れこめ、月の光すら薄ぼんやりとしか届かない。


 華山派の客間の一角で、石中流せきちゅうりゅうは寝台に横たわっていた。

 しかし、疲れのせいか、先ほどの一件のせいか、なかなか眠りに落ちることができない。


 胸中は腑に落ちない思いでいっぱいだ。


「ふぅ……」


 石中流せきちゅうりゅうが何度目かになる寝返りを打ったとき、ふと、鈴の音と囁き声がした。


 チリン……


【――あなた……騙されているわよ……】

「……!」


 ぞくり、と背筋を悪寒が這う。石中流せきちゅうりゅうは目を見開いた。


 声だ――女の声だ。

 夜風を聞き間違えたのかと思うほどさりげなく、細く――けれど、どこか生々しく情念を感じさせる――間違いなく、女の声だ。


 この部屋には誰もいない。

 師父も弟弟子も、別の部屋で休んでいるはずだ。


 女の声の幽鬼には一度出くわしている。あの幽鬼では?


 石中流は静かに息を潜め、枕元の道剣に手を伸ばしながら室内を見回した。

 灯火はすでに落とされ、窓の外には庭が広がっているだけ。風の音、虫の声。普段と何ら変わりはない。


 ……いや、違う。


 風の音に混じって、何かが笑っている。


【ふふ……ふふふ……馬鹿ね……】


 ぎゅっと拳を握る。

 悪意のような。

 出来の悪い子を嘆くような。

 憎らしい誰かへの呪詛を募らせていくような。

 そんな声が、不安定に響く。独り言を垂れ流すかのように、なにかを言っている。


【本当に愚か……ああ、ああ、呪わしい、呪わしい……!】


 ぞわり、と頬をなぞる冷気がおぞましい。


 石中流せきちゅうりゅうは息を整え、そっと寝台から身を起こした。

 暗闇に目を凝らす。ぼんやりとした影が、部屋の隅に立っていた。


 ああ――あの女だ。


 長い黒髪を垂らし、白い衣をまとい、闇の中で不気味な微笑を浮かべている。

 肌は青白く、蝋のよう。生気がない。

 瞳は禍々しく、全身が半透明。この世ならざる者――幽鬼だ。


【世の中って、本当にいや……本当に、いや……簡単に騙されちゃって……】


 幽鬼にはよくあることだ。

 彼らは未練や、恨み。そういったものを強く抱いていて、切々と口にする……。


 石中流せきちゅうりゅうは幽鬼の在り様を理解している。

 ゆえに、世の中への恨みについては「幽鬼が言いそうなことだ」という感慨しかないのだが、気になるのは幽鬼が彼に向けて言ったことだった。


「幽鬼よ。私が取り憑かれている? 私になにか、先ほど言わなかったか? その、個人的な恨みではなく私に……騙されている、と、言わなかったか?」


 幽鬼に質問するなど、ばかげている。

 私はやはり、頭がどうにかなってしまったらしい――そんな自嘲を噛みしめつつ問えば、幽鬼は答えてくれた。


 唇だけが動き、か細く、しかしはっきりとした声が石中流の鼓膜を打つ。


【ええ。騙されている。そう、教えてあげたの】 


 まるで、血を啜るような声だった。


「どういう、ことだ……?」


 問わずにはいられなかった。


 騙されている――、

 それはつまり、自分の疑念……「皇妃が悪しき存在で人々を騙している」という発想について、「あなたが正しいのよ」と教えてくれているのではあるまいか?


「あの皇妃のことか? お前は、何か知っているのか?」

【ふふふ……】 


 女はわらった。


 そして、次の瞬間。

 女は、ぐんっと急接近して顔を寄せてきた。


「……っ!」


 びくり、と身体が硬直する。

 幽鬼のもたらす心霊現象――金縛りといわれる状態だ。

 石中流せきちゅうりゅうは油断した自分を呪った。道士が幽鬼に隙を見せて金縛りに遭うなど、恥じるべき失態だ。


「くっ……」

【ふふふ……ふふ……ふふふふふふ……】 


 金縛りを解こうと気を巡らせる石中流せきちゅうりゅうの視界いっぱいに、幽鬼の顔が迫る。

 女の真っ黒な瞳孔が広がり。

 緋色の口が裂け、そこから真っ黒な舌が覗いた。舌の上には、おぞましく蠢く百足むかでが載っていた。


「……――ひっ……」


 ぞわりと嫌悪感と恐怖が湧く。思わず石中流せきちゅうりゅうは悲鳴めいた声を漏らしてしまった。


【情けない、未熟な道士。何を言ってもわからない……もう……話すだけ、無駄ね……】


 ずるり。


 冷たい指が喉を撫でる。


【またね――――お、ば、か、さ、ん……】


 幽鬼は、石中流せきちゅうりゅうに口付けをした。

 半透明な霊体はぞっとするほど冷たく、しかも感触が生々しい。

 喉奥まで幽鬼の舌が差し込まれ、恐ろしいことに百足むかでが無理やり飲み込まされて、石中流せきちゅうりゅうはえづいた。


「うっ、うぇっ、げ、げぇっ……」


 異物が喉を通り、臓腑に落ちていく感触がひたすらに気持ち悪い。

 魔性の術では、呪いによく蟲を扱う。

 これはよくない。

 きっと、とても恐ろしい術を体内に仕込まれた。

 絶対に飲みこんではいけなかったのに、飲んでしまった。

 ――大変だ!


「げえぇっ、うぇっ、ぜぇ、ぜぇ、……」

【うふふ、ふふっ、ふふふふふ……ふふ――】 


 悶え苦しむ石中流せきちゅうりゅうの耳に、悪夢のように女の笑い声が響き続ける。


 と、その時。


師兄しけい。起きていらっしゃいますか?」

「!」


 年下の青年の声が聞こえた。

 弟弟子、洛星児らくせいじだ。

 彼が房室へやの外から問いかけている――頼もしい味方だ!


 その瞬間、金縛りが解けた。

 石中流せきちゅうりゅうは呼吸を荒げながら必死に道剣を抜き、幽鬼を薙いだ。


【あんっ】 


 手ごたえはなかったが、幽鬼は嬌声めいた声をあげ、空気に溶けるようにふっと消えた。


 部屋の中には、石中流せきちゅうりゅうの荒い息だけが残った。


 口の中が、喉が、胸が、胃が、気持ち悪い。

 あの蟲はどうなったのか――術はかけられているのか。

 自分はどうなってしまうのか。


「師兄……いかがなさいましたか?」


 室内の気配がおかしいと思ったのか、洛星児らくせいじが入ってくる。


「ら……洛星児らくせいじ……。来てくれて、助かった。今、私は――」


 汗が滲む額を拭い、石中流は震える手で破邪鈴を握りしめた。


 ……妃は、何者なのか。


 そして、あの女は……?


 恐怖と疑念が、静かに胸を支配していった。


「私は、幽鬼に取り憑かれ……襲われて呪いをかけられた、……かもしれない……」


 弟弟子に打ち明ける自分の声は、ひどく惨めに聞こえた。

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