一方その頃、華山派にあてがわれた客間では、
「石中流、なぜあのような無礼を申したのか」
「師兄、肝が冷えましたよ……っ」
夏国の重臣や皇帝夫妻の前では
「師父。……あ、あれは……っ」
非難されて己の行動を客観的に顧りみてみれば、確かに問題があったような気もする。
思い出すのは、皇妃
あの瞳を思い出すと、胸がざわざわとする。
頬が熱くなり、じっとしていられない気分になる。
まるで、一目ぼれだ。
(私が間違っていたのか。それにしても、あの妃の美しさは……まことに普通の人間なのだろうか……あのような美しい女性がいるのか……)
あれは、魔性の美しさではないか。
老若男女問わず、暴力的なまでの美で心を奪い、執着させる――、
「師父よ。不肖の弟子の妄言をお許しください……」
師父は、静かに頷いて発言を待ってくれる。
ここで「自分の頭がどうかしていました」と言えば、それで終わる話だ。
おそらく師父は許してくれるに違いない。
だが、その場しのぎの謝罪で終わらせたくない、気が済まない――そう思ってしまう自分がいる。
自分はおかしいのではないか。
そんな自覚を抱き、恐れつつも、
「恐れながら、師父……!」
「わ、私は、あの妃がただの女人には思えぬのです。私は、師父に預かっていた
師父が首を振るのが無慈悲に見えた。
弟弟子は?
――し、視線を逸らされている。
「今日はもう休むといい。疲れているのだろう」
師父の言葉は優しさの中に突き放す気配をくるんでいた。
すると、その晩、枕元に幽鬼が現れた。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
――その晩。
夜は深く、空には雲が垂れこめ、月の光すら薄ぼんやりとしか届かない。
華山派の客間の一角で、
しかし、疲れのせいか、先ほどの一件のせいか、なかなか眠りに落ちることができない。
胸中は腑に落ちない思いでいっぱいだ。
「ふぅ……」
チリン……
【――あなた……騙されているわよ……】
「……!」
ぞくり、と背筋を悪寒が這う。
声だ――女の声だ。
夜風を聞き間違えたのかと思うほどさりげなく、細く――けれど、どこか生々しく情念を感じさせる――間違いなく、女の声だ。
この部屋には誰もいない。
師父も弟弟子も、別の部屋で休んでいるはずだ。
女の声の幽鬼には一度出くわしている。あの幽鬼では?
石中流は静かに息を潜め、枕元の道剣に手を伸ばしながら室内を見回した。
灯火はすでに落とされ、窓の外には庭が広がっているだけ。風の音、虫の声。普段と何ら変わりはない。
……いや、違う。
風の音に混じって、何かが笑っている。
【ふふ……ふふふ……馬鹿ね……】
ぎゅっと拳を握る。
悪意のような。
出来の悪い子を嘆くような。
憎らしい誰かへの呪詛を募らせていくような。
そんな声が、不安定に響く。独り言を垂れ流すかのように、なにかを言っている。
【本当に愚か……ああ、ああ、呪わしい、呪わしい……!】
ぞわり、と頬をなぞる冷気がおぞましい。
暗闇に目を凝らす。ぼんやりとした影が、部屋の隅に立っていた。
ああ――あの女だ。
長い黒髪を垂らし、白い衣をまとい、闇の中で不気味な微笑を浮かべている。
肌は青白く、蝋のよう。生気がない。
瞳は禍々しく、全身が半透明。この世ならざる者――幽鬼だ。
【世の中って、本当にいや……本当に、いや……簡単に騙されちゃって……】
幽鬼にはよくあることだ。
彼らは未練や、恨み。そういったものを強く抱いていて、切々と口にする……。
ゆえに、世の中への恨みについては「幽鬼が言いそうなことだ」という感慨しかないのだが、気になるのは幽鬼が彼に向けて言ったことだった。
「幽鬼よ。私が取り憑かれている? 私になにか、先ほど言わなかったか? その、個人的な恨みではなく私に……騙されている、と、言わなかったか?」
幽鬼に質問するなど、ばかげている。
私はやはり、頭がどうにかなってしまったらしい――そんな自嘲を噛みしめつつ問えば、幽鬼は答えてくれた。
唇だけが動き、か細く、しかしはっきりとした声が石中流の鼓膜を打つ。
【ええ。騙されている。そう、教えてあげたの】
まるで、血を啜るような声だった。
「どういう、ことだ……?」
問わずにはいられなかった。
騙されている――、
それはつまり、自分の疑念……「皇妃が悪しき存在で人々を騙している」という発想について、「あなたが正しいのよ」と教えてくれているのではあるまいか?
「あの皇妃のことか? お前は、何か知っているのか?」
【ふふふ……】
女は
そして、次の瞬間。
女は、ぐんっと急接近して顔を寄せてきた。
「……っ!」
びくり、と身体が硬直する。
幽鬼のもたらす心霊現象――金縛りといわれる状態だ。
「くっ……」
【ふふふ……ふふ……ふふふふふふ……】
金縛りを解こうと気を巡らせる
女の真っ黒な瞳孔が広がり。
緋色の口が裂け、そこから真っ黒な舌が覗いた。舌の上には、おぞましく蠢く
「……――ひっ……」
ぞわりと嫌悪感と恐怖が湧く。思わず
【情けない、未熟な道士。何を言ってもわからない……もう……話すだけ、無駄ね……】
ずるり。
冷たい指が喉を撫でる。
【またね――――お、ば、か、さ、ん……】
幽鬼は、
半透明な霊体はぞっとするほど冷たく、しかも感触が生々しい。
喉奥まで幽鬼の舌が差し込まれ、恐ろしいことに
「うっ、うぇっ、げ、げぇっ……」
異物が喉を通り、臓腑に落ちていく感触がひたすらに気持ち悪い。
魔性の術では、呪いによく蟲を扱う。
これはよくない。
きっと、とても恐ろしい術を体内に仕込まれた。
絶対に飲みこんではいけなかったのに、飲んでしまった。
――大変だ!
「げえぇっ、うぇっ、ぜぇ、ぜぇ、……」
【うふふ、ふふっ、ふふふふふ……ふふ――】
悶え苦しむ
と、その時。
「
「!」
年下の青年の声が聞こえた。
弟弟子、
彼が
その瞬間、金縛りが解けた。
【あんっ】
手ごたえはなかったが、幽鬼は嬌声めいた声をあげ、空気に溶けるようにふっと消えた。
部屋の中には、
口の中が、喉が、胸が、胃が、気持ち悪い。
あの蟲はどうなったのか――術はかけられているのか。
自分はどうなってしまうのか。
「師兄……いかがなさいましたか?」
室内の気配がおかしいと思ったのか、
「ら……
汗が滲む額を拭い、石中流は震える手で破邪鈴を握りしめた。
……妃は、何者なのか。
そして、あの女は……?
恐怖と疑念が、静かに胸を支配していった。
「私は、幽鬼に取り憑かれ……襲われて呪いをかけられた、……かもしれない……」
弟弟子に打ち明ける自分の声は、ひどく惨めに聞こえた。