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30、華凛妃には才能があるようだ

「では、本日のご指南を始めさせていただきますのう」


 柳剣鋒はのんびりとした「おじいさま」っぽさのある口調で言って恭しく一礼すると、最初に呼吸法を教えた。


「まず、皆さまに知っていただきたいのは、普段の呼吸では体内に滞る気があるということですのう。深くゆっくりと息を吐き出し、気を滞りなく巡らせましょう。意識するのは、丹田ですぞ」


 侍女たちは頷きながら耳を傾けているが、「小難しい話や地道な修練なしで、なんとか不思議な術を使えるようになったらいいのに」と顔に書いてある。


 柳剣鋒はひと呼吸置いて、肩をすくめた。

 そして、おじいさま言葉を辞めてキリリとした言葉使いで指南を始めた。


「それでは、実際に行ってみましょう。まず、お腹に意識を向け、力を入れながらゆっくりと引っ込めます。そのまま、すべての息を吐き切るようにしてください」


 きっと、「この子たちはのほほんと教えていたら駄目だな」と思ったのかもしれない。華凛かりんは侍女と柳剣鋒が微笑ましく思えて笑ってしまいそうになった。


「すうーっ」

「ふうー」

「こほっ、こほっ」


 侍女たちはお互いを見つめ合いながら、お腹をへこませる。思い切り息を吐こうとするが、途中で咳き込んだり、肩が上がってしまったりしている者もいる。

 華凛かりんも笑いを押さえ、ゆったりと息を吐いた。


「息を吐き終えたら、そこで二秒間静止します。……そう、焦らずに。次に、お腹の力を抜きます。すると、自然に空気が入ってくるのを感じるでしょう」


 言われた通りにすると、お腹がふくらむ感覚があった。思ったよりも自然な動きだ。


「そこから、さらにゆっくりと鼻から息を吸い続けてください。胸が十分に広がるまで、焦らず、一定のペースで。……よろしい、その状態で三つ数え、息を止めます」


 侍女たちは真剣な表情で息を吸い込み、静止する。堂内はしんと静まり返った。


「では、ゆっくりと口から息を吐き出しましょう。細く長く、すべての空気を押し出すように。吐き切ったら、お腹に少し力が入り、前かがみの姿勢になります。その状態で再び二秒間静止し……」


 柳剣鋒は示すように軽く前傾し、穏やかに続けた。


「……その後、お腹の力を抜き、背筋を伸ばしながら自然に空気を入れます。ここまでが一連の流れです」


 侍女たちは「はぁ……」と息を吐きながら、次第に動作を理解してきた様子だった。

 最初はぎこちなかった呼吸も、繰り返すうちに滑らかになっていく。


「とてもよくできています。この呼吸を意識的に行えば、気を整え、動きの基盤を作ることができます。護身の技を学ぶ前に、しっかりと身につけていただきます……つまりですじゃ、お花ちゃんたち。わしは、護身の技を教える気がちゃんとありますでの、がんばってついてきてくだされ~!」


 柳剣鋒りゅうけんほうは陽気におどけてみせて、侍女たちを和ませた。

 なんだか、最初に思っていた道士様の印象と違って、すごく親しみやすくて面白い方!

 侍女たちも楽しそうで、よかった――華凛かりんはほっと胸をなでおろした。


 ただ、その日はずっと呼吸だけ繰り返して終わったので、侍女たちは「思っていたのと違いましたね」と少しだけ残念そうだった。


 では次回は、というと、次回も次の次の回も呼吸だった。


「道士様に付き合っていたら呼吸だけで寿命が尽きてしまうのではありませんか?」

「お山に籠って幼少から修行するらしいですから、とっても気が長い修行方法なのでしょう」

「護身の術という予定でしたけど、呼吸術で護身できるのかしら」


 侍女たちは面白がるように言いつつ、華凛かりんが通うのに辛抱強く付いてきた。


「呼吸はつまらないけど、おじさまは面白い!」


 みんなが口をそろえて言うので、華凛かりんは「柳剣鋒りゅうけんほうおじさまが俗っぽく振る舞う狙いは、こういう感想なのではないかしら」と思うのだった。


   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆ 


華凛かりん妃には、才能があるようだ……」


 師父である柳剣鋒りゅうけんほうが妃や侍女に指南をする様子を隠れて見学していた華山派の道士、石中流せきちゅうりゅうは驚いた。


 彼は名目上「療養中」なのだが、今のところ、実は肉体的に不調を感じることはない。

 あの夜、師父にも体を診てもらったのだが、「現状は異常がなく、様子見」と言われてしまった。

 そして数日――「体調はどうか」と気遣われながら療養生活を送っているが、飲み下した蟲が暴れる様子もなく、「実は夢を見ただけなのでは」などと弟弟子に揶揄されるようになってきた本日である。


 たくさんの侍女たちに囲まれた華凛かりん妃は、容姿が美しいだけではなかった。

 凛とした姿勢のよさ。優雅で淑やかな所作。静かで正しく深い呼吸。

 その気配は澄んでいて――まるで本当に天女がいるようだ。


 なによりも、術の才能だ。

 術を得意とする石中流せきちゅうりゅうには、華凛妃の才能がわかった。


 ――彼女は、自分よりも優れた資質の持ち主だ。


 師父、柳剣鋒りゅうけんほうも気づいている。


 単に身分が高いからではなく、才能があるから、華凛かりん妃を大切に特別に指導している。


 石中流せきちゅうりゅうには、それもわかった。


 ……となると、やはり華凛かりん妃は邪悪ではないのだろうか?


 石中流せきちゅうりゅうは両手で頭を抱えてしばし悩んだ。


「しかし、それにしても、師父があのようなことをおっしゃるとは……。貴き皇妃様がお相手だからか? いや、我々華山派は、権力にへりくだることはない……」


『麗しい花々に囲まれてわしも楽しいですからのう』


 禁欲的な修行者の模範であるはずの師父は、石中流せきちゅうりゅうの知らない一面を見せていた。

 弟子たちには見せない種類の甘すぎる笑顔。

 あってはならない欲をちらつかせているように見えてしまう眼差し。

 まさかそんな。我が師父が女性に浮かれているなど。好色そうに見えるなど。

 ……あってはならない! 


「み、見間違いだ! 気のせいだ! 私がどうかしているのだ……っ」


 石中流せきちゅうりゅうはぶんぶんと首を横に振り、雑念を追い払った。

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