それに。
「ごらん、あの方が慈悲深き賢妃様だよ」
――なんだか、また変な呼称が増えてしまった。
原因はわかっている。
まず、「
夏国では、国内の名匠を宮廷に召し抱えて、皇帝や妃たちの装飾品を宮廷職人が勢作する独自文化があるのである。
華凛はぎょっとしたが、皇帝は素早く調査して事実確認をして、「そのような事実はないが?」と彼女の名誉を守ってくれた。
皇帝、
「お、お許しを。妻が病気で!」
皇帝の腕を掴んで止めるなど、妃でもそうそう許されない。まして、剣を抜いて罪人を制裁しようとしていたときだ。
その瞬間の皇帝の目は、忘れられない。
とてもびっくりした顔をしていて、いつも泰然としている彼がこんな顔をするのかと思うと、
最近、夫が優しくて、侍女たちも「溺愛されておいでですね」と持ち上げてくれるものだから、調子に乗ってしまったのだ。
「……
少ししてから、
「は、はい。そうですわ……」
「その……主上……。よ……予算を、削っていなくても……、戦が……終わったことで、……ほ、宝飾品の価値が上がって……相対的に予算が苦しくなることは、ありませんか……?」
戦争中は資源が軍事目的に集中し、奢侈品である宝飾品の生産や流通が制限されることが多い。
購入する側も生活のために必要な食料品が高騰したり、男性を徴兵されたりするため、贅沢品を買い控える。
しかし平和が訪れて生活が安定すると、富裕層や宮廷での装飾品への需要が高まる。
需要が増えれば、材料費も上がる。
結果として相対的に予算が圧迫される状況は起こり得る。
以前よりもモノが高値になったのに予算が変わらない――愚痴った背景には、こうした変化が影響している可能性はあるのでは。
「ふむ。そなたの言い分では、まるで予算を増やせというように聞こえるな」
「そ……それに……」
また調子に乗ってしまっている。
私は最近、差し出がましいことをしてしまいがちだ。いけない。
「それに、なんだ? 申せ」
皇帝、
ああ、この夫はこうなのだ。
それが嬉しくて、甘えてしまう。
自分は思っていることを伝えてもいいのだ、なんて、自信を持ってしまうのだ。
「ご、ご家族の方が、……ご病気であるなら……日ごとの勤労に謝意をこめ、お見舞いを、申し上げたいものです。お……お薬は、高価なものは……本当に高価ですから……もし困っている方が、この方以外にもいらしたら、……国家が助けてあげられるようにできたら……」
後日、予算は見直され、医療支援の制度案が検討されることになった。
「支援金庫を設置する。有志が援金庫に寄付をする。見返りは求めない寄付だが、参加した者の中で自分や家族が病に罹り、高額な医療費が必要と鳴った際には、支援金庫から定額を出して贈る」
この制度は大陸中で「月帝の支援金庫制」と言われるようになり、案を出したのが皇妃の
しかし、その後。
華凛がいつものように後宮の庭園を散歩しているとき、「皇妃襲撃事件」が起きた。
穏やかな午後の出来事だった。
華凛が侍女たちと軽やかに言葉を交わしながら歩を進めていたその時、茂みの奥から不穏な影が飛び出した。
「きゃあっ!?」
刺客だ。
黒装束に身を包み、冷たく光る刃を手に持つその男は、迷いなく華凛へと襲いかかってきた。
「妃殿下、お下がりください!」
侍女の一人が叫び、護衛が剣を抜く音が響いた。
侍女のひとり、
「う……
華凛は咄嗟に雲英に駆け寄り、腕を掴んだ。
この侍女は常日頃から
けして見捨てまい。逃げるときは一緒に逃げるのだ。
「か、
雲英が悲鳴を上げる。
刺客の眼光が鋭く二人を捉え、殺意を伴う刃が風を切って迫っていた。
――恐ろしい。
と、そのとき、華凛の耳に聞き慣れた声が届いた。
「なぜ侍女を守ろうとする? 逆ではないか」
皇帝、
彼はまるで嵐のように現れ、華凛の前に滑り込んできたかと思うと、刺客が振り下ろした刃を鮮やかに受け、絡めとるようにすくい上げて弾いた。
そして、鋭い一閃が空を裂く。
血飛沫が地面に散り、刺客は呻き声を上げて倒れ伏した。
戦闘はほんの一呼吸の間に終わりを迎えた。
「華凛、無事か? 抱き着くなら俺にせよ。侍女は、主を守れ。守られているとは何事だ」
滄月の声は低く落ち着いていたが、その瞳には微かな動揺が宿っていた。
いつも泰然自若とした彼が、こんなにも感情を露わにするのは珍しい。華凛は息を整えながら小さく頷き、そっと彼の手を握った。
「主上、も、申し訳ございません!」
雲英が頭を下げ、詫びている。
そんなに謝らないで。だって、今のはとても怖かったじゃない。
「あ、あ、あの……。その子は、……悪く、ありませんわ。わ、……私を、守ってくれようとして……、こ、こ、ころんだのですっ。それで……私、いつも、その子に……よくしてもらっているもので、……可愛いものですから……死なせたくなくて。い、い、一緒に逃げようと思い……っ、しょ、処罰など、しないで。雲英を、お許しくださいませ……っ」
「わかった。落ち着け。処罰などはしない」
夫は少し困った気配を纏い、
侍女たちはまだ震えが収まらず、護衛たちは刺客の亡骸を囲んで警戒を解かずにいた。
だが、華凛の心には奇妙な安堵が広がった。
この夫は、どんな時も自分を守ってくれる。そう確信できた事件だった。
◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆
「その子は、……悪く、ありませんわ」
貴き主人、華凛を守ろうと思っていたのに、いざという画面で自分はうまく動けなかった。
怖くて、足がもつれて、全身が強張って――全くの役立たずだった。
主人の足を引っ張り、守ってもらうなんて。
叱責どころではなく、首が飛んでもおかしくない。
自らの手で自分の爪を剥ぎ、短刀で首を突いてお詫び申し上げねばならない不祥事だ。
それなのに、主人はそんな自分を「悪くない」と抱きしめ、皇帝に許すよう訴えてくれている。
――ああっ、私の華凛様……っ。
失敗してしまったが、私はまだ死ぬまい。
本日の罪と恥を背負い、生きて償おう。
そして、次に何かあった際には喜んでこの身を捧げて、今度こそ忠臣として名誉の死を遂げるのだ……!
「華凛様……っ、私は、情けない侍女でございます。恥ずかしゅうございます。お慕い申し上げております、この命を捧げとう存じます、はぁはぁ……っ」
号泣しながら地面に頭をつけて叫ぶと、皇帝が「本当に大丈夫か、その侍女は……?」と呟くのが聞こえた。
あまり大丈夫ではない自覚はあるが、主人である華凛は「大丈夫です、気が動転してしまっているのですわ」と優しく言い、
「さあ、
陽射しに照らされた華凛妃の麗しいかんばせが神々しい。涼やかに吹く風に揺れる黒髪が艶めいていて、この世のものと思えぬほど美しい。
――私の華凛様は、本物の天女様だ。