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32、花見と嘘

 華山道士の一団は、体調不良者が出たこともあり、滞在期間を予定より延長して長居するらしい。


 その知らせが宮廷内に広まると、侍女たちの間には好奇的なざわめきが広がった。

 華山派の道士たちは、その神秘的な雰囲気と武俠の技で知られている。普段は山奥にこもる彼らがこうして都に留まるのは珍しいことだった。

 まして、直接「道士様の中でも偉い人」に護身術を習う機会なんて――すごいことなのだ。


 道士一団の首魁である柳剣鋒りゅう けんほうは、接するほどに親しみやすさが増していくおじさまだ。

 白髪交じりの髪をゆるく束ね、道士服に身を包んだ彼の姿は、どこか仙人の風格を漂わせながらも、笑顔には人懐っこさが滲んでいる。初対面の堅苦しさはすぐに解け、宮廷の人々も彼に心を許し始めていた。


華凛かりん妃様におかれましては、恐ろしい事件があったと聞きましたぞい。大変でございましたなあ」


 同情的に言う声音は穏やかで、まるで春の風がそっと頬を撫でるような温かみを帯びていた。

 柳剣鋒りゅう けんほうは、華凛かりんの前に腰を下ろし、柔和な眼差しで彼女を見つめている。


 その声にホッとした様子で、侍女たちが「そうなのですわ」「怖かったですわ」と共感の言葉を返している。


「かような襲撃の際にわしらが格好良く駆け付けられればよかったのですがのう。悔しいですのう。こりゃ、指南する方もされる方も落ち着かなくていかん。本日は指南をお休みして、梅の木の下で花見をしましょうかの」


 柳剣鋒りゅう けんほうはそう言って立ち上がり、庭園の方へ視線を向けた。

 提案する口調は軽やかで、まるで重い空気を払拭しようとするかのようだ。


「よろしいですかの、華凛かりん妃様?」

「え、……ええ」


 こうしてこの日の指南はお休みとなり、華凛かりんと侍女たちはのんびりと花見をすることになった。


 色鮮やかな紅梅の木が並ぶ庭園は、香る紅梅がひらひらと舞い落ちるさまが幻想的だ。

 陽光に照らされた花びらが風に乗り、地面に敷かれた薄絹のように広がっていく。


 侍女たちが卓を運び、茶会の準備を進める。

 卓上の白磁の茶杯に茉莉花まつりか茶が注がれ、甘味には蓮の実餡れんようあんを包んだ菱形の菓子を並べて、茶会は始まった。


 指南以外で柳剣鋒りゅうけんほうと過ごすのは初めてだ。

 どんなことを話したものか――相手は皇帝の恩人であり、華凛かりんや侍女たちに護身術を教えてくれている師。

 敬意を持ち、楽しんでもらえる会話をしなければ。

 しかし、しゃべるのがあまり得意ではない華凛かりんには、敷居が高い。


「……ほ、本日は……お日柄もよく……」


 無難すぎる言葉を選びながら、華凛かりんは茶杯を手にした。

 指先がじんわりと温もりと、落ち着く。


 茶の香りがふわりと立ち上り、菓子の優しい甘さが口に広がる。おいしい。


華凛かりん妃様。夏国の茶菓子は実にうまいですな。いつも感心しておりますぞ」


 柳剣鋒りゅうけんほう華凛かりんに好意的な笑みを向け、話しかけてくる。


 その目は細められ、まるで孫でも見るような温かさに満ちていた――見た目は若いけれど。

 柳剣鋒りゅうけんほうは茶杯を手に持ったまま、ゆったりとした仕草で彼女に語りかけた。


「いや~、それにしても、華凛かりん妃様におかれましては、襲撃にも動揺することなく侍女を庇い、襲撃者を護身術で返り討ちにしたともお伺いしておりますぞ。素晴らしい……!」

「……えっ」


 感嘆の声とともに、彼は茶杯を置いて手を叩いた。

 その仕草には純粋な賞賛が込められているようだった。

 しかし――

 庇うまではいいとして、返り討ちにしたのは皇帝だ。


 華凛かりんはふるふると首を横に振ったが、侍女たちは「格好よかったですわ」と頷いている……。


 華凛は内心で首を傾げつつ、侍女たちの様子をちらりと窺った。

 彼女たちは目を輝かせ、まるで自分たちが目撃した出来事を誇るように語り合っている。


「私の目の前で天女皇妃様が天に向かって手を差し伸べられたのです。すると、悪党が悲鳴を上げて倒れたのです!」


 ――雲英うんえいなどは、うっとりと変なことを言い出した。


(な、なぜ? あなたたちは現場にいて、真相を知っていますのに……そんな事実は、ありませんでしょう?)


 華凛の胸中に疑問が渦巻く。

 彼女自身、襲撃の混乱の中で皇帝が現れ、敵を倒した瞬間をはっきりと覚えている。それなのに、侍女たちの話はどこか現実から逸れていくようだった。


 一人の侍女が興奮気味に身を乗り出し、両手を広げてその場面を再現する。


「私は見ましたよ。皇妃様が手を差し伸べたあと、雲の間から光がキラキラと差して皇帝陛下が現れたのです」


 もう一人が夢見心地に目を細め、からりと晴れた青空を拝んだ。


「私たちは奇跡を見たのですね!」


(????)


 華凛かりんの心の中が「?」でいっぱいになる。


 彼女たちの脳内で、事実とは違う「こんなことが起きました!」がどんどん膨らんでいくようだった。

 しかし、皇帝が華凛かりんの唱えたまじない言葉によって龍に変身したとか、西王母様が雲の隙間から手を振っていたとか、さすがに盛りすぎでは。


「皇帝陛下には内密にお願いしますね、うふふ」

「そうですわぁっ。このお話はお花見の茶会だけの秘密ということで!」


 華凛は思わず茶杯を持つ手を止め、目の前の侍女たちをまじまじと見つめた。


「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」


 柳剣鋒は穏やかに笑っている。


「天女皇妃様は才能のある方ですからな。わしも指南していて常々、秘められた才能に驚いているのですぞい」


 彼の言葉には確信が宿っており、まるで彼女の内面を見透かしているかのようだ。


「皇妃様というご身分がなければ弟子として育てたいくらいですのう」


 「まあ」「すごい!」と侍女たちが喜んでいる。

 彼女たちは自分たちがお仕えする女主人が褒められると自分のことのようにはしゃいでくれる。


 一方、柳剣鋒りゅうけんほうの目には一瞬、真剣な光が宿った。


華凛かりん妃様。ここだけの話をしましょう」

「は……、い?」


 柳剣鋒は声を潜め、周囲を軽く見回した後、人差し指を自分の唇の前で立てた。

 すると、侍女たちの声や、自然の草木が立てるさやさやとした音が遠くなり、まるで二人だけになったような錯覚が湧く。

 侍女たちは少し離れた場所で菓子をつまみながら談笑しており、こちらを気にする様子がない――不思議だ。


 ――これはもしかして、道士が使う「不思議な術」?


 華凛かりんがびっくりしていると、柳剣鋒りゅうけんほうは「内緒話ができる術を使っておりますぞ」といたずらが成功したような顔で笑ってくれた。


「さて、華凛かりん妃様。現状にご不満はございませんかの?」


 その問いは静かだが、どこか深い意味を孕んでいるように聞こえた。

 華凛の耳に届いた瞬間、彼女の心がわずかに波立った。


「もしお望みであれば、わしはあなた様をこの鳥籠から連れ出して広い世界をお見せすることもできますぞ」


 柳剣鋒りゅうけんほうはそう言って、庭園の空を見上げた。

 その視線の先には、紅梅の枝越しに広がる青空がどこまでも続いている。


 ――心配してくださっているのかしら?


 華凛かりんは彼の言葉を反芻しつつ、内心でその意図を探った。


 一国の皇妃にかける言葉としては危険すぎるが、武俠者の道士は国家をあまり気にしない。

 彼らは生活の場も険しい山中だし、人の殻を破って不老不死の仙になろうとしているのだから。


 彼女は柳剣鋒の横顔をそっと見つめ、彼の自由な生き方に一抹の憧れを感じた。


 特に、この若々しい外見の柳剣鋒りゅう けんほうなどは、見るからに仙人になりかけている。

 正派・華山派で仙境に一歩踏み入れてるような人物の心根は、清く正しいに決まっている。

 そんな存在が「才能がある」と言い、「現状に不満があるなら助けてやる」と言ってくれる――光栄でありがたい厚意だ。


 華凛かりんは感謝の気持ちを礼の形にしてあらわしつつ、丁寧に言葉を選んだ。


「あ……ありがとう……存じます、柳剣鋒りゅう けんほう先生。不満は……ありませんが……」


 ふと思いついたのは、石中流せきちゅうりゅうという道士気になっていた謎の影だった。

 柳剣鋒りゅう けんほうに質問してみたらどうだろう、という気持ちが湧いてきて、華凛かりんはそっと問いかけた。


「あ、あ、あのう。し……心配というか、……気になることは、あります」


 ほう、と柳剣鋒りゅう けんほうが先を促してくれる。

 それに勇気をもらい、華凛かりんは先を続けた。


「せ、せ、石中流せきちゅうりゅう様の……近くに、……その……か、影のようなものが。見えるときが……あるのですっ……」


 思い切って口にし、柳剣鋒りゅうけんほうの反応を窺うと、思っていたのと違って明るい返答があった。


「ほう! 中流ちゅうりゅうに憑いている幽鬼が見えておられるとは。実は、あれは修行の一環なのですじゃ」

「――――えっ……?」


 華凛かりんは思わず声を漏らし、彼の顔をまじまじと見つめた。


華凛かりん妃様。あれのことはご心配なく」


 彼はそう言って手を振ると、まるで些細なことだとでも言うように肩をすくめた。


「そ、そうなのですか? 道士様の修行って、大変なのですね」


 華凛は安堵の息をつきつつも、道士たちの世界の奥深さに改めて驚嘆した。

 よくわからないが、あの影は修行の一環で、問題ないらしい……。



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