夜。
宮廷の喧騒が静まり、月明かりが庭園を淡く照らす時間帯が訪れた。
「……」
宿舎の灯りが次第に消えゆく頃、
彼の足音は忍びやかで、まるで影が滑るように廊下を進んでいく。
夜更けの空は墨を流したように濃く、遠くの山並みが漆黒に溶け込んでいる。
月は雲に隠れて姿を見せず、風の音も、虫の声さえも、今は遠慮しているかのようにひそやかだった。
静寂が支配する中、彼の姿だけが闇に浮かび上がっていた。
庭園の紅梅は、日中の華やかさをひそめ、今は闇の中で静かに佇んでいる。
淡く冷たい夜気に晒され、枝先に残った紅の花びらが、ひとひら、またひとひらと、音もなく落ちた。
その様子はまるで、昼間の賑わいを惜しむかのように儚く、どこか寂しげだった。
柳剣鋒は、背を伸ばして夜空を仰いだ。
道士服の裾が風に揺れ、袂の中で何かがきらりと光を反射する。
それは小さな刃物か、あるいは何か秘められた道具か――闇の中ではその正体を確かめる術もない。
「来たか――」
彼の低く抑えた声に呼応するかのように、空の闇がざわめいた。
その声は昼間の柔和さとは打って変わり、冷たく鋭い響きを帯びていた。
――バサリ。
闇に紛れて飛来したのは、一羽の大きな黒い鳥。
鴉にしては大きすぎ、翼の縁が夜の光をはじくように艶めいていた。
常の鳥とは異なる、不気味なほど沈黙を守る飛翔。
空を裂くような音もなく、鳥はふわりと庭石の上に降り立つ。
その姿は異様で、まるでこの世のものではないかのような気配を漂わせていた。
その目は紅く細く、まるで深い夜の底から何かを見透かすように光っている。
「暗黒の太陽、夜を
ひび割れた岩のような声で畏怖をこめて鳥を呼ぶ――それも、大陸中に危険な存在として悪名が
「――――我が君、
彼の言葉には深い敬意と服従が込められていた。
そして、呼ばれた黒い鳥は口を開いた――いや、声は確かに鳥の
「魔人、
夜の静寂がさらに深まったかのようだった。
黒い鳥の嘴が、あり得ざる人の言葉を紡ぐ。
その声は若木のように瑞々しく、耳に触れるたびにぞくりとするほど澄んだ男性のもの。
言葉のひとつひとつが、聞き手の胸元を冷たい刃で撫でるようでありながら、同時に吸い込まれるような妖しさを帯びている。
優美で、得体が知れず、不気味。
そんな美声に柳剣鋒は膝をつき、頭を垂れた。
「天魔様。……あなた様の忠実なる配下は、お嬢様を見つけましてございます」
実は、本物の
現在の彼は、魔教の幹部魔人である
「お嬢様は、御名を
熱い口調で「お嬢様」について報告すると、天魔教主は喜び、
「我が娘はやはり生きていたか。
「――ありがたき幸せ!」
彼は天魔教主に心酔しているのだ。
その忠誠心は、夜の闇の中でも熱く燃え上がっているようだった。男の頬が恍惚と興奮に赤く染まり、膝をついた脚の根本では雄の証が膨らんでいる。
彼は天魔教主に恋焦がれてもいるのである。
風もないのに、梅の枝がわずかに揺れる。
その微かな動きが、まるで何かが起こる前触れのように感じられた。
「それにしても、皇妃だと……」
天魔教主の声が一瞬、低く沈んだ。
「俺の娘を
「
「――……はっ……」
教主は感情の窺えぬ声色で呟き、闇の中へ音もなく飛び立った。
空を見上げれば、ただの夜。何もいない、何も聞こえない。
だがその背後、紅梅の花がひとつ、まるで何かを見ていたかのように静かに落ちた。
その花びらは、夜の秘密をそっと隠すように地面に溶け込んでいった。
「ふ、ふ、ふふふ。我が君がわしの名を二回も呼んでくださった…………ふう……」
「…………幸せだ……」