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33、天魔と配下


 夜。


 宮廷の喧騒が静まり、月明かりが庭園を淡く照らす時間帯が訪れた。


「……」


 宿舎の灯りが次第に消えゆく頃、柳剣鋒りゅう けんほうは静かに部屋を抜け出した。


 彼の足音は忍びやかで、まるで影が滑るように廊下を進んでいく。


 夜更けの空は墨を流したように濃く、遠くの山並みが漆黒に溶け込んでいる。

 月は雲に隠れて姿を見せず、風の音も、虫の声さえも、今は遠慮しているかのようにひそやかだった。


 静寂が支配する中、彼の姿だけが闇に浮かび上がっていた。


 庭園の紅梅は、日中の華やかさをひそめ、今は闇の中で静かに佇んでいる。

 淡く冷たい夜気に晒され、枝先に残った紅の花びらが、ひとひら、またひとひらと、音もなく落ちた。


 その様子はまるで、昼間の賑わいを惜しむかのように儚く、どこか寂しげだった。


 柳剣鋒は、背を伸ばして夜空を仰いだ。

 道士服の裾が風に揺れ、袂の中で何かがきらりと光を反射する。

 それは小さな刃物か、あるいは何か秘められた道具か――闇の中ではその正体を確かめる術もない。


「来たか――」


 彼の低く抑えた声に呼応するかのように、空の闇がざわめいた。

 その声は昼間の柔和さとは打って変わり、冷たく鋭い響きを帯びていた。


 ――バサリ。


 闇に紛れて飛来したのは、一羽の大きな黒い鳥。

 鴉にしては大きすぎ、翼の縁が夜の光をはじくように艶めいていた。


 常の鳥とは異なる、不気味なほど沈黙を守る飛翔。

 空を裂くような音もなく、鳥はふわりと庭石の上に降り立つ。


 その姿は異様で、まるでこの世のものではないかのような気配を漂わせていた。

 その目は紅く細く、まるで深い夜の底から何かを見透かすように光っている。


 柳剣鋒りゅうけんほうはその視線を受け止め、一瞬だけ息を呑んだ。そして、崇拝の温度感あふれる熱っぽい声で鳥に呼びかけた。


「暗黒の太陽、夜をべる御影みかげ月下げっか視座しざ……」


 柳剣鋒りゅうけんほうの声はもう、昼間の柔和な道士のそれではない。


 ひび割れた岩のような声で畏怖をこめて鳥を呼ぶ――それも、大陸中に危険な存在として悪名がとどろく邪派魔教の教主の称号を。


「――――我が君、天魔てんま様……」


 彼の言葉には深い敬意と服従が込められていた。


 そして、呼ばれた黒い鳥は口を開いた――いや、声は確かに鳥のくちばしから響いたが、その響きは人の言葉だった。


「魔人、玄冥げんめい。報告をせよ」


 夜の静寂がさらに深まったかのようだった。


 黒い鳥の嘴が、あり得ざる人の言葉を紡ぐ。

 その声は若木のように瑞々しく、耳に触れるたびにぞくりとするほど澄んだ男性のもの。

 言葉のひとつひとつが、聞き手の胸元を冷たい刃で撫でるようでありながら、同時に吸い込まれるような妖しさを帯びている。


 優美で、得体が知れず、不気味。

 そんな美声に柳剣鋒は膝をつき、頭を垂れた。


「天魔様。……あなた様の忠実なる配下は、お嬢様を見つけましてございます」


 実は、本物の柳剣鋒りゅう けんほうは死んでいる。

 現在の彼は、魔教の幹部魔人である玄冥げんめいという男がなりすましているのだ。


 玄冥げんめいの使命は、教主の娘を探すこと――彼は、華凛かりん妃がその娘だと確信していた。


「お嬢様は、御名を華凛かりん様とおっしゃいます。たいそう美しく、術の才能もおありで……」


 熱い口調で「お嬢様」について報告すると、天魔教主は喜び、ねぎらってくれた。


「我が娘はやはり生きていたか。玄冥げんめい、よくやった。褒めてつかわすぞ」

「――ありがたき幸せ!」


 玄冥げんめいは歓喜を声に滲ませ、より深く頭を下げた。


 彼は天魔教主に心酔しているのだ。

 その忠誠心は、夜の闇の中でも熱く燃え上がっているようだった。男の頬が恍惚と興奮に赤く染まり、膝をついた脚の根本では雄の証が膨らんでいる。

 彼は天魔教主に恋焦がれてもいるのである。


 風もないのに、梅の枝がわずかに揺れる。

 その微かな動きが、まるで何かが起こる前触れのように感じられた。


「それにしても、皇妃だと……」


 天魔教主の声が一瞬、低く沈んだ。


「俺の娘をめとるなど許さない」

玄冥げんめい。我が娘を皇帝と破局させよ。我が娘の居場所は父の腕の中なのだと教えてやるがよい」

「――……はっ……」


 教主は感情の窺えぬ声色で呟き、闇の中へ音もなく飛び立った。

 空を見上げれば、ただの夜。何もいない、何も聞こえない。


 だがその背後、紅梅の花がひとつ、まるで何かを見ていたかのように静かに落ちた。

 その花びらは、夜の秘密をそっと隠すように地面に溶け込んでいった。


「ふ、ふ、ふふふ。我が君がわしの名を二回も呼んでくださった…………ふう……」


 柳剣鋒りゅう けんほうになりすました魔人、玄冥げんめいは、去って行った愛しき「我が君」への熱い想いを胸に、余韻に浸った。


「…………幸せだ……」


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