梅の実が熟す頃、後宮は雨季を迎えた。
湿気が後宮の庭を重たく包み、梅の木の葉は雨粒に濡れて深い緑を湛えている。そんな中、
耳元には、大粒の滴型をした翡翠の耳飾りをつけている。
それが動くたびに揺れるのを見て、陽奏は「きれい」と褒めてくれた。
「おかあさま、おにあい!」
「あ、ありがとう、陽奏」
「けいせい!」
こういう褒め言葉をいつの間に覚えてくるのだろう、三歳なのに。華凛はしゃらりと髪飾りを鳴らして首を傾げた。
それにしても、三歳になる我が子、陽奏は、白絹に瑠璃色の刺繍が施された小袍を纏っていて、実に愛らしい。
見ているだけで気持ちが晴れやかになり、ちっぽけな疑問などどうでもよくなってくる。
「よ……
思ったままの賛辞を口にすると、我が子は目をくりくりさせて両手で頬をむにっとした。
(なんですの、その仕草。可愛らしい……)
思わず見とれる華凛の視線の先で、息子は「ぼく、かっこいいの!」と雄叫びを上げた。
なるほど、格好いいと言われたかったらしい。
「……陽奏は格好いいですわ」
「うんっ!」
――ああ、可愛い。
この季節、夏国では晴れ間を空に願うおまじないをする。
色とりどりの布や糸を梅の木の枝に結び、祈りや願い、感謝の言葉を唱えるおまじないだ。
天は人々の心の音を楽しみ、地上に慈愛を返してくれる……と伝えられている。
本日はそのおまじないをするために、後宮の渡り廊下に集まった華凛と侍女たちが屋根の下でおまじない用の糸や布生地を選んでいるところだった。
雨音が屋根を叩く規則正しい音を背景にして、華凛は
「よ……、陽奏。このおまじないは、
三歳の子どもには難しいだろうか、と思いながら、色彩豊かな糸や布生地を広げて見せる。廊下から降りると雨に潤む花々の庭園がすぐ近くにあるが、廊糸や布生地が廊下の床に広がり彩るさまは、まるで満開の花畑のようだった。
陽奏は大きな瞳で糸や帯を見つめ、周りに控える侍女たちを見て、眉を寄せた。
「ばいけちゅ、せいばい?」
「せ……せいがん、ですわ。ばいけつ、せいがん」
「ばいばい、せいばん」
難しい言葉を舌で転がす陽奏の愛らしさに、侍女たちが頬を緩めた。
「じゃあね、ぼくね、こえ、あげゆ」
陽奏は真っ白で艶々の絹糸を華凛に渡してくれた。
「まあ。お母様にくださるの?」
「うん。いと。みんなのも!」
受け取ると、陽奏は楽しそうに笑って、布や糸の海に物おじせず手を伸ばして選んでいく。
よいしょ、うんしょと重そうに持ち上げ、大切そうに渡すので、侍女たちは涙を流さんばかりに喜んだ。
「どーじょ」
「きゃあ、殿下がどーじょですって」
「うん!」
華凛は微笑ましく見守りつつ、陽奏が持っている布の端を持ってあげようとした。
すると、陽奏は珍しいことに、厳しい目付きで母を見る。
「いいの」
「あっ、そ、そうですの?」
ぼくがあげゆの。おてつだい、いらないの。
そんな感情が全身からあふれ出ている息子を見て、華凛は手を引っ込めた。
侍女たちは、そんな皇子にすっかり骨抜きにされている。
「私たちの殿下が選んでくださった布でおまじないするのですもの、お空も可愛さに晴れること間違いなしですわ」
「そういえば、華山派の方々も、もうお帰りになるのですね。寂しくなりますわ」
「うふふ、ばいばいですわね」
「殿下! わたくしにも、糸をお恵みくださいませ」
侍女たちの華やぐ笑い声が響き、渡り廊下に穏やかで優しい空気が満ちていく。
そんな空気を作り、満足したらしき陽奏は、落ち着く暇がない。
「ぼく、もういくー!」
「あっ、陽奏……っ」
準備を終えると、陽奏は待ちきれない様子で渡り廊下の端から庭へとひょこんと降り立った。
まるで仔うさぎのように身軽な皇子の動きに、侍女たちが「きゃあ」「まあ」と騒ぎだす。
華凛は慌てて息子を追いかけた。
梅の木が雨に濡れて静かに佇む庭へ一歩踏み出した瞬間、細かな雨粒が袖を濡らし始める。
「お二人とも! 濡れてしまいます! どうか傘にお入りくださいませ」
侍女の中でも忠誠心の厚い
華凛はありがたく傘の柄を取り、陽奏の上に赤い傘を広げた。
「華凛妃様。傘、持ちますのに」
自分の手で傘を持つ女主人に、どこか寂しげに思える口調で雲英が呟く。
黒い髪をお団子に結った彼女が我が子に「おてつだい、いらない」と拒まれた自分に重なって見えて、華凛は傘をゆだねた。
とん、とん、ぱらぱら。
傘を叩く雨音が耳に心地いい。
しっとりと濡れた梅の木に近付くと、木の近くには朱塗りの木製台座が用意されていた。
木の枝に届くよう、上に乗って手を伸ばすためだ。
先回りした宦官の
「
『
我々の心は清々しい風の志に寄り添い、 晴れた空をいつまで待つのだろうか。早く晴れてほしいなあ』。
そんな意味の詩だ。
華凛は枝のひとつに糸を結んだ。侍女たちも明るい笑い声や話し声を立てながら糸や布を結んでいる。
陽奏も小さな手で枝に布を巻き、お願いことを口にした。
「りーくんのおとうさまが、うわき、やめゆよーに」
「……?」
何をお願いしているのだろうか。
うわき? 不穏な単語が聞こえた気がする。
三歳児が口にした「うわき」が気になったが、陽奏は真面目な顔で他のお願い事も口に連ねた。
「おかあさま、しゅこやか」
あどけない声に、華凛の胸が暖かくなる。
母が健やかでいてほしい、と願ってくれたのだ。
なんて嬉しい言葉だろう。
人間相手にものを言うより、木の枝に向かって詩を詠む方が言葉が出やすい。
小さな声で、独り言のように。晴れ間を望み、家族や近しい人々の幸せを願おうか。
華凛は言葉を脳裏で練り上げ、紅唇を開いた。
「雨
――『雨が止み、雲が開くところ、 晴れの光が大地を明るく照らす……』。
そこまで詠んだところで、周囲がざわめく。
「華凛妃様の
「さすが天女皇妃様!」
(……はい?)
なんと、絶妙の間で雨が止み、 雨粒が消え、雲の切れ間から柔らかな光が差し始めている。
そして、侍女たちがまたいつもの勘違いをしているではないか。
「華凛妃様の祝詞で雨が止んだなんて! さすが天女皇妃様ですわ!」
「まるで天候すら操る天女のよう……!」
ああ、庭に響く侍女たちの興奮した声。
偶然ですわ。おまじないはあくまでおまじないですわ。
「おまじない、しゅごいね!」
陽奏は母の裾を握りしめ、キラキラした瞳で空を見上げている。
この瞳に「しゅごくありませんわ」なんて言えない。
「お、お、おまじないは、しゅごいですわね、陽奏」
「ね!」
ああ、西王母様。本日も息子が可愛いです。
わたくし、また「しゅごい」になってしまいましたわ。
でも、息子が喜んでいて……。
華凛は思わず手を合わせ、天を拝んだ。