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35、斬るか

 天は、雲の晴れ間から神秘的な光を地上に注いでいる。

 神々しい晴れ模様だ。


 華凛が手を合わせていると、つられたように息子が手を合わせ、侍女たちもそれに倣う。

 それに気付いた華凛が「そろそろ、屋根の下に戻りましょうか?」と提案しようと視線を周囲に巡らせると、もうすぐ城を離れる客人の道士と目が合った。


 ゆったりとした白の道服に、額当て。長く伸ばした黒髪を、ひとつに結んで後ろで流している。

 少しやつれた様子の道士。

 いつの間にいたのか……石中流せきちゅうりゅうだ。 

 その顔色はどこか青白く、肩のあたりには黒いもやもやのようなものが漂っていた。


 彼の師匠は「修行のうち」などと言っていたが、心配になる。

 華凛が気にしていると、周囲に異変が起きた。


 「あら」「あっ」という小声が周囲からふと湧いて、声が引っ込んだかと思えば、代わりに皆が頭を下げたり畏まって礼の形を取ることで生じる衣擦れの音が合唱する。

 なにごと、と見渡して、華凛は「ああ」と瞬きをした。


 この夏国で最も重んじられるべき、若き国主――華凛の夫である皇帝がやってきたのだ。

 晴れ間から差した光に照らされて浮かび上がるような存在感を放つ皇帝、滄月そうげつは、この日も光輝くように美しい顔立ちと、皇帝の装束に見劣りせぬ堂々たる威厳を見せていた。

 背はまっすぐで、歩みは淀みなく――ただし、華凛の目には、夫が若干、不機嫌そうに感じられた。


 その感覚は正しかったようで、滄月は冷たく言い放った。


「悪い虫がいる」


 ひゅっと一瞬の疾風が駆け抜けたような鋭い音が場を支配する。

 同時に、きゃあ、と悲鳴が起きた。

 深い藍色の龍袍の袖を揺らした彼が、剣を抜いて虚空を一閃したのだ、と理解したのは、夫の手が腰に剣を納めてからだった。


 何を斬ったのか、と一拍してから恐々こわごわと状況を把握してみれば、剣の間合いから数歩分離れたところにいた石中流が尻餅をついている。

 「自分が斬られると思った」という思いが、表情から見て取れた。――そういうこと?


「悪い虫が飛んでいて目障りだった。ゆえに追い払った」


 周囲に説明する滄月そうげつに頭を下げて、石中流せきちゅうりゅうかしこまっている。

 その肩に見えていた黒いもやもやが消えていることに気付き、華凛は目を見開いた。――そういうこと?(二度目)


 夫は、推定・怨霊を祓ったのでは?

 すごい。

 華凛は思わず拍手した。


「す……すごいですわ。祓われてます……」

「華凛?」


 学んだ道術の知識がいくつも頭の中で結びつく。

 道士が何年も節制的に修行して会得する、邪悪を払う力。

 それが今、まさに目の前で披露されたのだ。夫か――夫の持つ蒼く美しい剣の力か。


「主上。み、み、……見えたのですか?」

「うむ? そなたはなにを……? だが、悪い気はしないな。珍しい。今のが気に入ったのか?」


 反応からすると、見えてはいなかった様子?

 よくわからないが、夫は機嫌を上向きにして華凛の両手を自分の手で包んだ。


「そなた、指先が冷えているではないか。それにしても麗しい指先だな。細くて折れてしまいそうだ。爪はどんな宝玉よりも艶があって麗しい」

「つ、爪は、侍女が塗ってくれました……」

「よい仕事をしている。褒めてつかわそう」


 爪や指を愛でるように唇を付ける皇帝に、華凛は照れてしまった。

 一方。


「しゅごくない!」


 陽奏はご機嫌ななめだ。威嚇するように布を振り回している。滄月は面白がるように呟いた。


「見ろ、なんだあの野蛮な童は。俺に嫉妬しているぞ」


 滄月は軽やかに華凛の腰に腕を回した。

 そして、華凛が手にしていた赤い傘をさっと奪うと、それを顔の前にかざし、傘の陰で一瞬だけ触れる口付けをした。


「……!」


 傘で隠れているとはいえ、周囲に人がいる状況での大胆な口付け。

 それに、角度的にすぐ近くにいる陽奏には見られていた。滄月は明らかに確信犯で、口の端を上げ、息子をじろじろと見下ろした。


「悔しいか、ん? 悔しいのか?」

「きりゃい! かえれ!」

「くくっ……、我が息子ながら、そなたは実に反抗的だな。動物的で、洗練されていない野生の猿のようだ」


 ぎゃんぎゃんと吠える皇子と、それをからかう皇帝に、周囲も慣れた気配で「またやっている」と困り顔だ。瑞軒などは遠い目をして「片づけましょう」と布や糸の後始末を開始している。


 それにしても石中流せきちゅうりゅうが気になる。

 最初、恐怖を浮かべていた彼は、胃のあたりを手で押さえて不思議そうな顔になっていた。顔色がよくなっている気がする。


 華凛は頼れる侍女に囁いた。


「う、雲英うんえい。彼に、……ご体調はいかが、と……」

「承知しました、華凛妃様。直接お声をかけないのは、よいご判断だと思いますわ」


 頼れる侍女は察しがいい。

 意思伝達が苦手な華凛の意思をよく汲んでくれる。


 片手で作った拳で自分の胸をとん、と突いた雲英は、颯爽と道士に近付き、小声で長い間なにかを語りかけた。

 なかなか長い。

 そんなに長く語るような指示を出した記憶はない――神について語るようなうっとりとした表情を見た華凛は少しだけ不安になった。

 だが、少なくとも好意は伝わった様子で、やがて石中流せきちゅうりゅうは立ち上がって敬礼をしてくれた。


「心なしか体調がよくなったように思います。まことにありがとうございました」


(わたくし、何もしていないのだけど……)

 本気で首をかしげつつ、華凛は笑顔を向けた。


「……わ、わ、わたくしではなく……主上の、おちからですわ……」


   ◆◆◇◇◆◆◇◇◆◆


 慈悲深く、謙虚な心が滲む、たおやかな声。

 石中流せきちゅうりゅうは、妃の玲瓏とした声に罪悪感を刺激された。


 侍女は言った。


「華凛妃は天から遣わされた天女で、地上では制約があり能力や知識を隠しがちだが、いざというときには人を救ってくれるのです」

 ――と。

「華凛妃は道術の講義のときに、石中流せきちゅうりゅう殿が怨霊めいたものに取り憑かれていると見抜いており、心配していたのですよ」

 ――と。 

「夏国の皇帝の剣撃は、天女に『あの場所に悪霊がいるので、追い祓うように』と夫婦のみわかる合図で示されて放ったものに違いありませんわ!」

 ――と。

「怨霊が祓われて体調がよくなったはずですが、いかが? と、確認したいご様子です」 

 ――と。


 石中流せきちゅうりゅうは目が覚めた心地であった。


 雨が止み、空が晴れたのと同時に、視界が広がり世界が明るさを増したように感じる。


 ずっと取り憑かれていた疑念が消えて、逆に「なぜそんなおかしな考えを抱いていたのか」という気分になる。


「華凛妃様。おかげさまで、目が覚めましてございます。まことにありがとうございます」


 深々と頭を下げると、「頭を上げよ」と言われる。


 遠慮がちに頭を上げると、そこには陽だまりの中で眩く神々しく輝く美しい天女がいた。

 天女は艶やかに風に揺れる黒髪を白い手でおさえ、たおやかに優しく微笑んだ。


 その微笑みが胸を突き、呼吸を苦しくさせる。

 心臓の音が騒がしく、他者に聞こえるのではと心配になる。


 いけない、このお方は清らかな天女様で、人妻、それも至高の皇帝の妃だ。

 そして自分は山住まいの道士。生涯欲を断ち、人を脱して仙人になろうと志す身……。

 しかし――美しい。

 天女様が、自分を見てくださっている。

 その麗しい瞳に自分が映っていることが光栄でならない。どうか。どうか、このひとときが永遠に続きますように……。


 慈愛に満ちた眼差しと笑みに、石中流せきちゅうりゅうはすっかりのぼせた。


「こほん、こほん」


 皇帝に咳払いされるまで、我を忘れて夢中で見惚れていた。


「魂が抜けたようだな……斬るか?」

「や、やめてくださいまし……?」


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