私の手をそっと包む。
母は、それが何でも上手くいくおまじないと言ってくれた。
私が緊張しているとき、
私が悲しんでいるとき、
母はその手で私の手をそっと包んだ。
これは何でも上手くいくおまじないだと言ってくれた。
母の手のぬくもりは、
そのおまじないが本当であるように思わせてくれた。
手から、心まであたたかくなり、
暗かった気持ちに光が差し込むようだった。
それは母の優しいおまじない。
私を包んでくれた母のおまじない。
私はそれから成長をして、
結婚して子どもができた。
子どももすくすくと成長していった。
何か失敗することがあっては、
子どもなりに落ち込んでしまったり、
泣いてしまうこともあった。
子どものその様子を見ていると、
私の幼い頃を思い出した。
あの頃の私も子どもなりにいろいろなことで悩んでいた。
大人になれば何でもできると思っていた。
小さな手であることが頼りなくて、
もっと何でもできるようになりたかった。
そこで、ふと、私は母を思い出す。
ああ、母は私のこの気持ちをよくわかっていたんだな。
この小さな手が何もできないと悔しい思いをしているのを、
理解していたんだなと思った。
だからおまじないをかけてくれたんだと、親になってようやくわかった。
私の子は、子どもなりに緊張をしている。
春から新しいことが始まるので、
そのことに対してとても緊張している。
だから私はおまじないをかける。
あの時の母のように。
何でも上手くいくおまじないだと言って、
子どもの手を包み込む。
小さなこの手はやがて何でもできるようになる。
大切なものを守れるほどの手になる。
やがて何でも上手くいく。
私はその祈りと願いを込めて、おまじないをする。
子どもの表情が和らぐ。
なんだかうまくいきそうな気がすると笑った。
子どもは新しい環境に飛び込むべく出かけていった。
緊張がすべてなくなったわけではないけれど、
なんだか吹っ切れた顔をしていた。
ああ、おまじないは効果があったんだなと思った。
私の母も、こんな思いをしていたのだろうか。
幼い私を見守りながら、
祈りや願いを込めておまじないをしていたのだろうか。
もしかしたら、おまじないのことなんて忘れてしまっているかもしれない。
母にとっては些細な出来事だったのかもしれない。
それでも私にとってはおまじないで救われたし、
おまじないで何でも上手くいった。
母のおまじないは素晴らしいものであったと今でも思っている。
私は母に連絡をする。
距離があるのでなかなか会えないけれど、
母は遠くの地で元気にしているようだ。
おまじないのことを伝えようとしてやめた。
その代わりに、休みになったら子供を連れて遊びに行くことを約束した。
母は喜んでくれた。
孫はかわいいからねと笑った。
そのあとで、
いくつになっても子どもは子どもだと言った。
あなたが何歳になろうとも、やっぱり私の子どもなのよと。
優しく母は言った。
かなわないなと私は思う。
おまじないとして私の手を包んだ母の手は、
あたたかく大きかった。
そのあたたかさや大きさを、やはり越えられないなと思った。
私は永遠に母の子だ。
私が子どもの親になろうとも、
それは決して越えられない。
せめて私はおまじないを続けていこうと思った。
母がしてくれたおまじないを、
子どもにもしてあげよう。
そして、母の願いや祈りの気持ちを、
つないでいければと思う。
母の愛は、そうやって受け継がれていく。
ささやかなおまじないとして。
私は我が子の手を包む。
何でも上手くいくおまじないだと言って。
きっと全て上手くいく。
この子の人生にたくさんの幸せが満ちるようになる。
私は願いを込めておまじないをする。
母がそうしてくれたように、
私は我が子の手を包む。