目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第206話 あなたが蒸発する

あなたが蒸発した。


あなたはどこかに消えたいと、

いつも言っている人だった。

つらいことがあるならば聞くよと、私は言ったけれど、

あなたは笑顔で、つらいわけじゃなくて、消えたいんだと言った。

私はその感覚が理解できない。

つらくてつらくて消えたいという方が、

まだ私の中で理屈があるような気がする。

あなたは明るく、消えたいんだと言う。

どこかに消えられたらいいなぁと、笑う。


私の中の理屈では、

消えたいということと、この世からいなくなりたいが、

ほぼイコールになる。

あなたはこの世から消えたいと思うほど、

つらいのではないかと、

私は思ったけれど全然違うらしい。

だとしたら私は理解できなくなる。

あなたの消えたいとは一体何なのか、

私の常識では想像ができない。


難しい顔をして黙ってしまった私に、

あなたは何とか理解させようと話してくれた。

消えるとは、すべてにあるということなんだ。

この世界のどこにも水がある。

空気の中にも水蒸気として水がある。

生き物の中にも大体水がある。

石の中にだって少ないかもしれないけれど水がある。

世界は水に満ちている。

どういうことだろうかと尋ねたところ、

水になりたいとあなたは言った。

水になって消えたいと。

この身体を全部水にして、世界に消えたいと。

そしたら、世界のどこにでもいるとあなたは笑う。

あなたはそんなことを話してくれたけれど、

私の常識では理解できなくて、

あなたの夢物語みたいなものかと思った。


ある暑い日。季節外れの暑い日。

私とあなたは外に出た。

季節を無視したカンカン照りの太陽。

アスファルトには陽炎。

距離の狂った逃げ水も見える。

人々は汗を拭きながら、

足早に街を行く。

とにかく暑さをしのげる場所を探しているようだった。

私もかなりの汗をかいていて、

このままでは体調にかかわると思っていた時のことだった。


あなたが私の前を歩き出した。

それはなんだか現実的でない光景だった。

あなたの下に逃げ水がある。

逃げ水が逃げることなくあなたの下にある。

逃げ水が乱反射している。

あなたが私の方を見て笑った。

この暑さならば蒸発できそうだよ。

そう言った瞬間、

逃げ水からあなたに向けて、霧が上がったような気がした。

それはまるで沸騰した蒸気のように。

そのあとには何も残らなかった。

あなたも、逃げ水すらも。

あなたは蒸発してしまった。


あなたは消えてしまった。

消えてすぐはそれなりに騒ぎになった。

あなたが蒸発したそのときを見ていたのは私だけだけど、

それを誰にも話してはいない。

ただ、あなたが消えたということで、

行方不明者が出た、そのことでしばらく騒ぎになった。

やがて、手掛かりが何ひとつないことから、

もう調べても仕方ないという空気になって、

あなたのことは忘れられて行った。

私はあなたのことを忘れたことはなかった。


あなたは水になって蒸発した。

あなたはこの世界のどこにでもいる。

私の中の水になっているかもしれないし、

海にいるかもしれないし、

木の中にもいるかもしれない。

動物の中にいるかもしれないし、

食べ物の中にいるかもしれない。

あなたはどこにでもいる存在になった。

あなたは蒸発した。

あなたは望み通り消えた。

そして、水という形になって、世界中どこにでもいる。

いないけれどいる。

私はあなたを感じている。

あなたが楽しそうに、また、自由に世界をめぐっているのを感じる。

この世界はあなたにつつまれている。

この世界から蒸発して消えたあなたは、

見えなくなって、世界を包み込んでいる。


あなたの水が世界をめぐる。

また蒸発して、雨になる。

命の中を流れる。

山に降り注ぐ。

海に流れ込む。


逃げ水が見えるほどの暑い日になると、

あなたがまた姿を現さないかと思ってしまう。

見えたためしはない。

そんなことを考えている私を、

水となって世界をめぐっている、

あなたは、ここにいるよと笑っているのかもしれない。

蒸発して消えたあなたは、

どこにでもいる。

私はあなたの姿をとらえられない。

感じているけれど形がわからない。

水とはそんなものなのかもしれないし、

あなたはそれになれたのだろうなと思う。


蒸発したあなたが、世界中で笑っている。

それはそれは楽しそうに。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?