あなたが蒸発した。
あなたはどこかに消えたいと、
いつも言っている人だった。
つらいことがあるならば聞くよと、私は言ったけれど、
あなたは笑顔で、つらいわけじゃなくて、消えたいんだと言った。
私はその感覚が理解できない。
つらくてつらくて消えたいという方が、
まだ私の中で理屈があるような気がする。
あなたは明るく、消えたいんだと言う。
どこかに消えられたらいいなぁと、笑う。
私の中の理屈では、
消えたいということと、この世からいなくなりたいが、
ほぼイコールになる。
あなたはこの世から消えたいと思うほど、
つらいのではないかと、
私は思ったけれど全然違うらしい。
だとしたら私は理解できなくなる。
あなたの消えたいとは一体何なのか、
私の常識では想像ができない。
難しい顔をして黙ってしまった私に、
あなたは何とか理解させようと話してくれた。
消えるとは、すべてにあるということなんだ。
この世界のどこにも水がある。
空気の中にも水蒸気として水がある。
生き物の中にも大体水がある。
石の中にだって少ないかもしれないけれど水がある。
世界は水に満ちている。
どういうことだろうかと尋ねたところ、
水になりたいとあなたは言った。
水になって消えたいと。
この身体を全部水にして、世界に消えたいと。
そしたら、世界のどこにでもいるとあなたは笑う。
あなたはそんなことを話してくれたけれど、
私の常識では理解できなくて、
あなたの夢物語みたいなものかと思った。
ある暑い日。季節外れの暑い日。
私とあなたは外に出た。
季節を無視したカンカン照りの太陽。
アスファルトには陽炎。
距離の狂った逃げ水も見える。
人々は汗を拭きながら、
足早に街を行く。
とにかく暑さをしのげる場所を探しているようだった。
私もかなりの汗をかいていて、
このままでは体調にかかわると思っていた時のことだった。
あなたが私の前を歩き出した。
それはなんだか現実的でない光景だった。
あなたの下に逃げ水がある。
逃げ水が逃げることなくあなたの下にある。
逃げ水が乱反射している。
あなたが私の方を見て笑った。
この暑さならば蒸発できそうだよ。
そう言った瞬間、
逃げ水からあなたに向けて、霧が上がったような気がした。
それはまるで沸騰した蒸気のように。
そのあとには何も残らなかった。
あなたも、逃げ水すらも。
あなたは蒸発してしまった。
あなたは消えてしまった。
消えてすぐはそれなりに騒ぎになった。
あなたが蒸発したそのときを見ていたのは私だけだけど、
それを誰にも話してはいない。
ただ、あなたが消えたということで、
行方不明者が出た、そのことでしばらく騒ぎになった。
やがて、手掛かりが何ひとつないことから、
もう調べても仕方ないという空気になって、
あなたのことは忘れられて行った。
私はあなたのことを忘れたことはなかった。
あなたは水になって蒸発した。
あなたはこの世界のどこにでもいる。
私の中の水になっているかもしれないし、
海にいるかもしれないし、
木の中にもいるかもしれない。
動物の中にいるかもしれないし、
食べ物の中にいるかもしれない。
あなたはどこにでもいる存在になった。
あなたは蒸発した。
あなたは望み通り消えた。
そして、水という形になって、世界中どこにでもいる。
いないけれどいる。
私はあなたを感じている。
あなたが楽しそうに、また、自由に世界をめぐっているのを感じる。
この世界はあなたにつつまれている。
この世界から蒸発して消えたあなたは、
見えなくなって、世界を包み込んでいる。
あなたの水が世界をめぐる。
また蒸発して、雨になる。
命の中を流れる。
山に降り注ぐ。
海に流れ込む。
逃げ水が見えるほどの暑い日になると、
あなたがまた姿を現さないかと思ってしまう。
見えたためしはない。
そんなことを考えている私を、
水となって世界をめぐっている、
あなたは、ここにいるよと笑っているのかもしれない。
蒸発して消えたあなたは、
どこにでもいる。
私はあなたの姿をとらえられない。
感じているけれど形がわからない。
水とはそんなものなのかもしれないし、
あなたはそれになれたのだろうなと思う。
蒸発したあなたが、世界中で笑っている。
それはそれは楽しそうに。