思うに。
神様は信じるものしか救わないのじゃなくて、
なんだかよくわからないけれど、いいことが起きたり、
何かに守られているなと感じたときに、
神様というものでしか説明できないから、
神様というものがいると信じるのだと思う。
自分の周りにいいことが起きたときに、
すべてが自分の成果だと思う人もいるかもしれない。
あるいは、自分の人徳のなせるわざだと思う人もいるかもしれない。
ある程度までは人の力のなしえたところかもしれない。
努力を否定することはしない。
けれど、努力とは別の何らかのめぐりあわせが起きたとき、
それが望んでいたものであった場合、
神様が見ていてくれたと思ってしまうことはある。
自分の力だけでどうにかなるものでないところに、
不思議なめぐりあわせが起きてしまうこと。
その不思議さを、偶然という言葉で片付ける人もいるかもしれない。
ただ、望んでいることが偶然として起きるのは、
確率としてはかなり低いと思う。
望まないことが起きる確率だってあるだろうし、
望んだ形で起きる確率はそんなに高くないはずだ。
望まないことが起きてしまった場合は、
望んだことが起きるなんて、
そんなに都合のいいことがあるわけないと片付けるけれど、
そこにも不思議なめぐりあわせが起きているように思う。
たとえば、相手に対して感謝をしていないとか、
礼節を欠いているとか、
物事に真剣に打ち込んでいないとか、
そんな、物事に対して真摯に取り組んでいない時に、
望まないことがめぐりあわせとして起きてしまうような気がする。
自分の力で何とか出来ていると思っている人にとっては、
そのよくないめぐりあわせも偶然なのかもしれないけれど、
真剣に打ち込んでいない人に最上の結果がないことは、
人間の力で説明できない何かのめぐりあわせがあるような気がする。
神様というものは、
そんなめぐりあわせを説明するのによくできたものだと思う。
どんな時でも神様は見ている。
だから、神様に恥じないように生きた方がいい。
宗教と言えばそうだけど、
道徳や倫理や常識にも通じる。
地に足をつけてコツコツと生きる人。
誰かをだますことをしない人。
傷つけることをよしとしない人。
何かに真剣に打ち込む人。
そんなまっとうに生きるもののところに、
神様のご加護という形で、
不思議なめぐりあわせがあるような気がする。
世の中にはたくさんの神様がいるし、
どの神様のご加護が届いているかはわからないけれど、
基本神様は不真面目な人は好きでないような気がする。
毎日を一生懸命生きる人。
生きづらくても生きる人。
そんな、真っすぐに生きる人のところには、
あちこちの神様からご加護が届くのかもしれない。
いろいろなめぐりあわせがあって、
生きていてよかったと笑顔になるようなことがあるのかもしれない。
生きていて苦しい人もまだまだいる。
誰かに傷つけられてつらい思いをしている人もいる。
病気が治らない人もいる。
働いても生活が上向きにならない人もいる。
たくさんの苦しむ人がいる。
たくさんの神様がご加護を届けても、
まだ足りないくらい苦しんでいる人がいる。
どんなにまっとうに生きても苦しいと思うことがあるかもしれない。
絶望を見ることがあるかもしれない。
その時に、自分の力だけで生きているのではないと感じられたら、
自分の周りにも共に生きる誰かがいてくれると感じられたら、
その支えに感謝することができるようになったら、
あるいは、助けを求めて、助けてくれる誰かがいたら、
自分の力だけで生きているのではないと気付く第一歩であるように思う。
いろいろなものが自分を支えてくれている。
近くにいる誰かもそうだし、
遠くで何かを作ってくれている誰かもそうだし、
作ってくれたものを運んでくれる誰かもそうだし、
技術を作ってくれる誰かもそうだ。
自分がいろいろなものの中で生きているなと感じられて、
その中でまっとうに生きていこうと思ったとき、
神様というものが、ご加護を届けてくれるのかもしれないと思う。
神様というものが何を考えているかはわからないけれど、
まっとうに生きるものにはそんなめぐりあわせを繋ぐし、
そうでないものはきっとそれなりだろうなと思う。
自分がコツコツ続けてきたことが、
思った以上のめぐりあわせで花開いたとき、
自分の努力が実を結ぶと同時に、
神様が何かしたのではないかとも思う。
何も返せるものはないので、とりあえず感謝をする。
そもそも、どの神様かもわからない。
ただ、神様に恥ずかしくないように生きていれば、
そんなことも多分あるだろう。
世の中説明がつくものばかりじゃない。
神様という、よくわからないものも多分あるんだ。