「私、新しい家族に認められなくても、借金を返してくれて娼館行きにならなかったのは、伯爵が私を可哀そうだと思ったからだと、そこには少しだけ親の情があるのだと、心の奥底では期待していたんです。でも、そうじゃなかった。あの人は母の人生を狂わせた挙句、私を家の道具にしようとしていたんです」
母への仕打ち、伯爵家での自身の扱い、どれをとってもロレッタには辛く苦しいことだっただろう。ジャスティーナはロレッタが伯爵のことを父と呼ばないことを不思議に思っていたが、その意味がはっきりわかった。伯爵がロレッタを心から娘だと認めていないのと同様に、彼女も伯爵を父とは思いたくないのだ。
「……それから、私は淑女教育というものを叩き込まれました。少しでも失敗すると容赦なく鞭が飛んできましたし、食事の量を減らされることも度々ありました。私には監視がついていて逃げ出すことはできませんでした。異母兄弟達からは嫌がらせをたくさん受けました」
「……それは許せませんわね」
「でも希望はありました。一年後にこの学院に入ることです。そうすれば、あの暗くて冷たい地獄から抜け出すことができますから」
地獄、という言葉がジャスティーナの心に重くのしかかる。
「本妻は私が由緒正しいこの学院に通うことに最後まで反対していました。私の存在は伯爵家にとって恥だから世間から隠しておきたかったのでしょう。伯爵は私をどこかの貴族に嫁がせる算段なのでしょうけど、彼女は伯爵家にとって得となるようなどこかの裕福な商家にでも嫁がせればいいとでも思っていたのかもしれません。でも私はあの家には残りたくなかった。何が何でも学院に入って生き延びようと思ったんです。だから、辛い教育にも耐え、勉強も頑張りました」
「そう……そんなことが……。ロレッタ様はとてもお強い方なのですね」
「そんなことはありません。平民ならではの雑草魂です。執念ですよ。……それに、ここに入ればまた会えると思ったから」
ロレッタの語尾は小さくなったが、ジャスティーナは聞き逃さなかった。
「……会える? どなたに?」
ジャスティーナが尋ねると、ロレッタはハッと肩を揺らした。
「い、いえ、何でもありませんっ」
「……そう……ですか」
これ以上は聞くまい。だが、彼女の方からこれまでの境遇を話してくれるとは思っていなかった。
「……これまでお辛かったでしょうに、お話してくださってありがとう。だけど、私がこんな大切な話を聞いてよろしかったんでしょうか?」
「ええ。なぜだかわかりませんが、ジャスティーナ様には聞いていただきたくて。きっと魔獣研究と聞いて、ジャスティーナ様が変な顔をなさらなかったからだと思います。私にとって魔獣は禁忌ではなくて祖父との楽しい思い出なので、嬉しかったんです。……私の方こそ、重い話をしてしまって申し訳ありません」
「そんな、謝らないでください」
ジャスティーナは首を横に振った。
「あの……もしよろしければ、この本を拝見しても?」
「ええ、どうぞ」
ロレッタは皮表紙の本をジャスティーナに手渡す。
ジャスティーナはそっと本のページをめくった。
表紙こそしっかりしているが、中の紙は相当年季が入っており、今にも破けそうなページやインクが滲んで解読不可な箇所も多く見受けられる。
「あら、これは一体……」
本の中盤から終わりにかけて、酷く傷んでいる。何枚も重なってページがひっついて、しかも茶色の染みが広がり、もはや何が書いてあったか判明できない。
「ああ、これは……伯爵家に居た時に、こっそり読んでいるのを背後からお茶をかけられて……」
「なんてひどい……! 貴重な書物なのに! 異母兄弟達からの嫌がらせですよね」
「いいえ、これは……嫌がらせであることにはかわらないんですが……これをやったのは、アデラです」
「え?」
思いがけない人物の名に、ジャスティーナは驚く。
「アデラって、あのウェズリー伯爵家の……?」
ことあるごとにロレッタに嫌がらせをしていた人物だ。先日、見かねたジャスティーナによって返り討ちを喰らったが。
「はい」
「……あの、お二人は以前からお知り合いだったのですか?」
「ウェズリー伯爵家とエイマーズ伯爵家は親戚なんです。なので、家にもよく遊びに来ていて……」
ロレッタの表情が沈む。察するに、アデラはロレッタに会いに来ては数々の嫌がらせを行っていたのだろう。
「私が不注意だったんです。どんなに辛くても昔のことを思い出すと乗り切れる気がして、つい部屋の中でこの本を夢中で眺めていたんです。祖父との思い出に浸っていたら、背後から誰かが入ってくるのにも気が付かなくて。熱いと思った時には本にお茶がかけられていました」
「それはロレッタ様が悪いんじゃありませんよ。明らかにアデラ様が悪いです」
「ええ。でも家では……いいえ、どこにいっても彼女の方が立場は上なんです。もし私が歯向かっていたら、たちまち捕らえられて折檻されるのは分かり切っているので。それからは気をつけるようになりました。でも、その時にこの本をアデラに見られて。私が怪しい本を持っていると告げ口されたんです。伯爵が血相を変えて飛んできて、私の物を全部持っていきました」
「でも、この本は手元に戻ったんですか?」
「はい。アデラが伯爵を呼びに行っている間に、持っていかれて困る物は全部、誰にも見つからない場所に隠しましたから」
無理に笑顔を浮かべるロレッタを見て、ジャスティーナは胸が苦しくなった。彼女が『貴族は信用できない』と言った心情を理解できたからだ。彼女の苦しみを思うと、自分が魔王の力に怯えていたことなど、とても小さく思えてしまう。自分には支えてくれる人がいたが、彼女は冷たく苦しい世界でたった一人、戦って生きてきたのだ。
「ロレッタ様」
ジャスティーナは、自然とロレッタの手の上に自分のそれを重ねていた。
「私、これからあなたの力になれないでしょうか……?」