演目『聖竜と巫女』公演中──。
ギュムベルトは舞台袖で出番に備えている。
そこは現実と虚構の境界線、覚悟の空間だ。
役者は舞台上では別の人間として存在する。
舞台外を納刀状態と例えるなら舞台上では抜刀状態であり、袖はその境目といえる。
越えてしまえばやるだけだが、鍛錬の足りないものは恥をかくことになり跨ぐことには覚悟がいる。
ギュムベルトがチラと横を見るとそこにはニィハが立っている。
彼女が演者として舞台に立つのは旗揚げから今回がはじめてで、与えられたのは『竜の巫女役』この演目の主人公だ。
出ずっぱりになるため全体の監督を務めるイーリスや音響照明を兼ねるリーンに任せるのは負担が大きい。
前回の盛況をうけて今回の公演は大規模なものになり、『鉄の国』を拠点とする旅芸人たちを客演に迎えての大所帯だが、主役は劇団の人間に任せたいという判断がされた。
ニィハが手を触れるとギュムはそれを握り返す。
今回の二人はパートナー役ということもあり、出番をまえにこうして気持ちを作るのがルーティンになっていた。
初日は視線を交わし会釈するところから始まり、次第に背中を押して送り出すようになって今に到る。
ギュムとニィハではなく、役柄である『竜殺しの剣士』と『竜の巫女』としての気持ちに従った。
ニィハはいつも穏やかで機嫌がよく、怒ったり泣いたりしているところを見たことがない。
そんな彼女が引き締まった緊張感のある表情で立っている。
この時点で非日常を味わえた。
オンの魅力、オフの魅力、死線をまたごうとする狭間の魅力、袖に立つ役者には舞台上とはまたちがった輝きがある。
そんな仲間と客席の温度に一喜一憂し、その緊張感や興奮を共有できる一体感は演劇人の特権だ。
「いってらっしゃい」
ニィハが握っていた手を送り出すように導いた。
暗所から明かりの下、二人の空間から数百人の視線のまえに放り出される。
舞台は終盤に向かいつつある。
「どういうことか説明してくれるんだろうな、アーロック王子!」
竜殺しの剣士がセリフを投げかけた。
舞台の上では指揮官の衣装をまとったノロブが待ち構えている。
「よくぞ来てくれた我が友よ、邪竜の討伐にぜひとも『竜殺し』と名高いキミの力が借りたい」
舞台は西アシュハの西端に隣接する独立都市、聖都スマフラウ。
黄金色に輝く伝説のドラゴン『聖竜スマフラウ』を崇拝する人々の集落だ。
ノロブはマウ王国のアーロック・ルブレ・テオルム第三王子を演じる。
物語は彼が『竜殺し』の称号を手に入れた事件の記録。
主役はニィハ演じる聖竜の巫女、ギュムが演じるのは彼女の護衛を引き受けた旅の剣士。
「竜を神と崇めるこの町で、俺に神殺しをやれっていうのか?」
最大級とされる古竜が生息するこの地域は、その威光から他国の侵攻がなく流れ着いた戦争難民が身を寄せ合う安全地帯として発展した。
人々は古竜スマフラウを聖竜と呼んで崇拝し、飛竜を駆る独自の軍隊を形成するに至る。
「強大なる古竜の守護によって何者の侵略も受けない理想郷、しかしその実態は竜が人間から生命力を搾取するための餌場にすぎない」
竜が難民たちを追い払わないのは、スマフラウが食糧と認識しているからだ。
聖都に住むものは四十までを生きられない。
それでも戦争に傷つけられた人々は明日をも知れぬ命より、約束された四十年に満足していた。
「──そのような家畜同然の人生を、おなじ人間として私は看過することができない!」
「本音を言ってくれ」
「他国が手をつけていない潤沢な資源、それと聖都が誇る竜騎兵団を手中に収めたい」
アシュハ皇国一強の時代が続き、マウ王国第三王子は国力増強の為に奔走していた。
商会を立ち上げて世界情勢を探り、迫害される亜人を兵力として取り立て、最強生物と名高い竜にも喧嘩を売る。
そして敵国のアシュハ人である剣士にも躊躇なく助力を乞う。
「どうかね、我々に力を貸してはくれないか?」
「敵国の軍に与する訳にはいかない。それに俺は巫女の護衛だ、仕事を投げ出して寝返るつもりはないな」
「巫女はすでにその役目を終えた。神官たちの不正を暴くことで竜騎兵を取り込み聖都は制圧済み、残るは邪竜を討ち取るのみだ」
巫女は舞踏を捧げることで竜の寵愛を受け、その神託を授かることができる神聖な存在として聖都に君臨する。
それは神官たちが民を支配するために流布した方便、竜の巫女は偶像だ。
巫女は竜と対話などしていない、民衆を従わせるための装置でしかない。
それがある日、巫女候補の中から実際に竜と交信できる少女があらわれた。
権力の逆転を恐れた神官たちは少女の暗殺を企て、命の危険を察知した少女は『旅の吟遊詩人』に助けを求めた。
偽りの聖竜、偽りの聖都──。
王国軍の侵攻はすべてを詳らかにし、剣士は神官たちの魔の手から少女を守り切ったが都は終焉を迎えつつある。
「町の人間は納得して共存してるんだろ、それを破壊するのは気乗りがしねえな」
竜殺しの剣士は王子の誘いに応じない。
「それは残念だ、せめてキミが我々のまえに立ちふさがらないことを願うよ」
心変わりが見込めないと判断したアーロック王子は舞台を下手へと去る。
ドワーフの作った仕掛け舞台が時計回りに回転し、ギュムは上手に向かって歩く。
回転した舞台の裏側は室内の装置、ニィハ演じる聖竜の巫女が現れる。
「どこに行っていたの、心配したのよ!」
美しい巫女の姿に観客はみな恋に落ちる、それだけで舞台は成功と言えた。
「ルブレのやつ、竜神を退治するつもりなんだとよ」
「……できないよ」と、彼女は断言した。
スマフラウは巨大なだけではない、古の大魔術を操り人の思考を支配する。
神の名を冠するに足る存在だ。
「だとしても、おまえの意見を聞いておかねえと今後の方針が立たないからな」
「あたしが言えば、竜神さまを守って王国軍と戦ってくれるの?」
「ああ」と、男は肯定した。
「冗談よ、もう無茶しないで。あとは成りゆきにまかせよう? 竜神さまはかならず勝つわ」
「おい、いいのか?あの野郎がなんの勝算もなく挑むとは考えられねえ、もしもってことも……!」
神竜と繋がれた、それが彼女の念願であり存在意義のはずだ。
昨日までなら手をこまねいて見ているなんてできなかった。
「……四歳の頃はじめて儀式を見て、すごいって思ったの」
少女は当時の景色を思い起こすように宙を眺める。
「──荘厳な祭壇できらびやかに踊ってる巫女が輝いていて、皆がそれを喝采して、とにかく子供のあたしにはまぶしかったのよ」
それを素晴らしいものだと信じてうたがわなかった。
だからすぐに舞踏をはじめ、すべてを捧げた。
巫女になるまで他のものはなにもほしがらないと決めた。
「なにかおかしい、なにか変だと思っても、競争に必死でうたがうひまも無かった」
足を止めたら誰かがその座をさらっていってしまう気がして立ち止まれなかった。
「──それがようやく竜神さまと意思疎通ができたのに、生きてられたら迷惑だって……」
巫女になることが人々のためだと思っていた。
そしていざ夢を叶えたとたんに聖都から敵だと認定され命を狙われた。
憧れたのは幻、その実態はまったくの別物だった。
「あたし、なんてバカなんだろう。はじめからなかった! ありもしないものを追いかけて、時間を無駄にして、なにもかもを失った!」
守り神だと教えられていた竜は人間の敵で、巫女は嘘で、皆が盲信していた神官は悪党の集まり。
とうてい受け入れられない。
「責められるべきは立場を悪用していた神官たちだ」
「すべてを捧げたのよ!もうなにもない、あたしにはなにも!」
巫女は泣き崩れ、剣士は彼女が落ち着くのを傍らで待った。
「……ごめん、もういいの。あたしのためになにもしないで、もう終わったのよ全部」
剣士は少女を支えて座らせると今後の方針を伝える。
「きめた、俺が神竜を倒すぜ」
突然の宣言に少女は度肝を抜かれる。
「どうしてそうなるの?!」
意味不明だった。
竜の巫女が仕える主に、その用心棒がとつぜん反旗を翻したのだ。
「竜はいってみれば首輪だ、あいつがいるかぎりオマエはここを離れられない。そうだな?」
「だって、あたししか竜神さまの声がきけな──」
「なくなったら、ここから出ていけるってことだよな!」
言葉を食い気味に剣士は巫女の両肩をつかんで言い聞かせる。
「──昨日までは巫女になることがすべてだったとして、明日から別のもんになっちゃいけないなんてことはねえよ!いいじゃねえか、一からやりなおそうぜ!」
とてもこれから神に戦いを挑むとは思えない、明るい未来を語るような満面の笑顔で剣士は言った。
これはアーロック王子、現在の行商人ルブレが『竜殺し』と呼ばれるようになった戦いの逸話。
剣士の名はオーヴィル・ランカスター、巫女はイーリス・マルルムと呼ばれた──。
オーヴィルは大陸に三体確認されている古竜のひとつ、聖竜スマフラウを撃退した。
その戦いはアーロック王子の軍隊が壊滅に追いやられるほどの激戦になったが、聖都はマウ王国の支配下に加わる。
吟遊詩人オーヴィルはこの出来事を後世に残すべき命題としたが、彼のヘタクソな演奏と歌声が人々に刺さることはなかった。
それが今回こうして演劇という形でお披露目されることで叶えることができたのだった。
楽屋裏、オーヴィルが竜の衣装を脱ぎかけてうなだれる。
「なんで俺が竜役なんだ……」
イーリスが答える。
「おまえが剣士をやると竜が弱そうに見えるんだよ」
稽古中に何度も言ったことだ。
エマがオーヴィルのごてごてとした衣装を剥がすのを手伝いながら賛同する。
「オーヴィルはみんなより一回り大きいもんね!」
「べつに主役をやりたかったわけじゃねえんだが……」
自分の武勇伝の主役をやるだなんて、生きてるあいだに銅像を立てるに等しい行為だ。
ノロブが茶化す。
「わかります、たまには人間役をやりたいんですよね」
「前回がバケモノ役だったとでも言いたいのか!」
令嬢役だったはずだ。
「それはわたくしに刺さります……」
ニィハがうなだれると、エマが「なんで?」と首をかしげた。
令嬢役を演じるにあたってオーヴィルは彼女の振る舞いを参考にしたと言ったからだ。
「今回は女装をせずに済んだのでじつに満足度が高いですよ!」
ノロブはご満悦。
『三姉妹の花婿さがし』での彼は良い仕事をしていたが、初舞台での女役は精神的なハードルが高く、良くも悪くも笑いものだった。
今公演『聖竜と巫女』においてアーロック王子は重要な役どころ、上演するにあたって本人から事前の許諾を得る必要があった。
交渉はすんなり通った。
第一王子が国王に即位し、竜騎兵を取り上げられたことには少なからず不満があったらしい。
王国への貢献がすこしでも知れることは歓迎であるし、自分がドラゴンにとどめを刺すよう脚色してくれるならばということで許可が下りた。
手柄を取られることに対してオーヴィルは抗うことなく、事件が後世に残ればなんでも良いというスタンスで公演にこぎつけた。
着替えを終えたギュムはつぶやく。
「とんでもない人だったんだなあ」
オーヴィルの異常な強さを目の当たりにはしてきたが、ほとんど古の英雄なみの経歴だ。
巨大なドラゴンどころか、少年は馬より大きな動物を見たことすらない。
──とんでもない人たちだ。
ノロブのことはまったく尊敬していないが、これだけのメンツがなぜかオオカミを団長に掲げ辺境で演劇をしている。
チラとニィハを眺めたあと、自分の手に目をおとす。
──いい時間だったな。
若手というだけで今回も主役を任され、本当に良い経験をさせてもらったと感謝に絶えない。
「イーリス、明日からの予定は?」
リーンエレが先の予定をたずねた。
長期公演となる『聖竜と巫女』は一旦の休演期間に入る。
「二、三日はのんびりしようよ、またすぐ働かなくちゃだけど」
「わかったわ」と、いつも通り口数の少ない彼女の挙動に異変を感じとった者はいなかった。
リーンには公演に支障を来さないよう一段落するまで控えていた目的があり、ようやく実行に移す機を得たところだ。
その日も派手に打ち上げをして団員たちは笑ったり泣いたり、酔いつぶれたりして朝を迎えた。
活動を再開して以来、常に最良の時間を更新しているかのような幸福な日々が今朝まで続いていた。
そして、唐突にリーンエレは姿をくらますことになる。