この先に待ち受けている運命をギュムベルト少年は漠然としか想像できていない。
彼の光に惹かれた黒犬という現象は楽観すらしていた。
人狼だけはそれが地獄へつづく扉であることを知っている。
三人は地下倉庫に足を踏み入れた──。
暗闇のはずの倉庫には照明が灯っている。
「姉さん!」
状況確認のために足を止めたノロブの横をギュムが駆け抜けていく、エマも反射的につづいた。
そこにリーンエレが横たわっている。
「──姉さ……!?」
ギュムの足取りは距離を詰めるほどに重くなり呼びかける言葉を詰まらせた。
彼女のカラダは完全に脱力しており、その姿は死を想起させた。
透き通るように美しかった白い肌はほとんどが赤黒く変色しまだら模様になってしまっている。
強く殴られた部分は黒く、鋭利なもので殴られた部分は黄色く、その周囲は赤く、裂けた部位からは骨が露出しており血が滴っている。
再会した仲間は凄惨な姿に変わり果て見るに堪えない、彼女のもとに辿り着く前に失意で膝をついてしまいそうだった。
絶命しているように見えるがそれを確かめる勇気が出ない。
はじめにリーンに触れたのはエマだった。
「息してる! 生きてるよ!」
後方からノロブが追い付いてくる。
「人が来るまえに運び出すぞ」
この照明がリーンの為つけっぱなしにしているとは考えにくい、彼女を拷問していた人間がいたはずだ。
「……ああ、そうだな!」
抵抗できないように両手足の腱が切断されている、どこに触れても苦痛を与えそうで手が震えた。
不用意に持ち上げたりしたら取り返しのつかないことになりそうで恐ろしい。
カラダに触れたことで生命力が失われていないことを確認できた。
ギュムは裸のリーンに自分の上着を巻き付け、覚悟を決めて持ち上げる。
脱出の意思を三人が目線で確認した直後、ノロブが舌打ちをする。
地下室に怒鳴り声が響く。
「おまえたち、ここで何をしている!!」
引き返そうとしたところに屋敷の主人ケルクスと遭遇した。
灯りが着いていることから一時的な離席であることは想像ができた。
その手には人を殴打するための棍棒を握られていていたる所が返り血に染っている、状況からこの小男がリーンを拷問していたことは明らかだ。
怒りで言葉のでないギュムをノロブが押しのける。
「うちの団員が長居したようで、連れて帰りますね?」
かまっている場合じゃない。
ギュムはリーンを抱えて出口に向かう、そこにケルクスが立ち塞がる。
「おい! それは僕のだぞ!」
「……!」
無視して押しのけようとしたギュムの頭に棍棒が叩きつけられた。
ギュムはリーンを庇いながら転倒すると、彼女を床に丁寧に横たえて立ち上がる。
そして無言のまま怒りの形相でケルクスに詰め寄る。
「なんだその態度は!」
小男はたまらず棍棒による頭部への攻撃を繰り出したが、それはなんなく回避された。
ケルクスは何度も何度も棍棒を振り上げては振り下ろしたが、そのことごとくが躱され続ける。
伊達に毎朝イーリスの訓練に付き合ってはいない、若さゆえの目の良さ反応の良さもあり永遠に避けることができるだろう。
圧力に後退を強いられたケルクスが背後のかべにつまり、その胸ぐらをギュムが掴む。
「……なんで、こんなことをした?」
ケルクスは「えっ?」と惚けた返事をした。
「目的はなんだッ!!」
商人ギルドと劇団に確執はあったが原因となったサランドロはもういない。
彼とはすれ違った程度の接触しかなく団員を拷問されるいわれはないはずだ。
「……目的は、殴ることだ」
ギュムは「は?」と首を捻った。
「日々たまるストレスを僕は女を殴ることでしか解消できない性質なんだ」
言葉を失う少年を代弁してエマが叫ぶ。
「なにそれ、意味わかんない!」
ノロブは別段めずらしくもないと鼻で笑う。
「僕はこの見た目のせいでずいぶん舐められてきたんだ、それこそサランドロにはずいぶん可愛がられたよ!」
ケルクスはノロブに向かって叫んだ、彼もその場にいたのかもしれない。
抗議に対しては憐れみの言葉を返す。
「虐げられた弱者は強者にはやり返さない、その怒りをより弱い者で発散するようになるんだよな」
悪党である強者が弱者をいたぶるのではない、誰もがより弱者が虐げているだけ。
「上の奴にやられたことを、僕が下の奴にやる権利だってあるだろ!」
エマは心底から失望する。
「やられた側なら、やられることの痛みを知ってるんじゃないの……?」
痛みを知る者が教訓を生かすことなく、さらに弱者に押し付ける。
それでは救いがない、どこまでいっても終わらない。
この世は誰も救われることのない無限地獄だ。
「おい、放せ!いまならまだ引き返せるぞ!」
ケルクスはギュムの腕を掴んで凄んだ
ギュムはケルクスを引きずり倒すと馬乗りになってその顔面に拳をたたき落とした。
小男は「ぎゃあ!?」と痛みに呻いた。
ノロブはその光景を見て嬉しそうに笑う。
「残念なことにそのガキはイカレてる、弱いくせに平気で強者に楯突くんだ」
ギュムの発する殺気にケルクスもさすがに身の危険を感じはじめた。
「病気なんだ、自分でも苦しんでいるんだ!」
娼館で発散しようとしたがやりすぎる訳にもいかなかった。
犬猫の首をねじ切っても満たされず、大人が目を離した隙に子供を裏に連れ込んで殴るくらいのことは日常的にやっていた。
しかしそれでは満たされない。
女が良かった、いい女を殴るのが快感だ。
「──いつも見下されてたんだ!あの屈辱の日々がなければ僕もこうはならなかった!」
彼が行った拷問は情報を引き出すための行為ですらない。
惨めだった過去への復讐、抑圧された暴力性の発露だ。
ギュムにとって、そんなことはどうでもいい──。
「なぜエルフたちを狙う?」
彼らは社会的には無力だ。
しかし強弱でいえばかなり手強い、ルブレのエルフ兵たちは戦闘員でもあるから尚更だ。
【耳削ぎ】を使えば無力化できるが、ダラク族からの入手は情勢的にも困難なはずだ。
ルブレが主観を述べる。
「社会的にみれば亜人はもっとも立場が弱い。エルフやドワーフが失踪しても捜索されないし、たとえ殺しても事件化されない」
人をさらったり殺したりすれば当然、事件になる。
その点、エルフやドワーフは野良犬と同じ扱いだ、殺そうが犯そうが罪に問われない。
彼らは自衛するしかない、その結果が【鉄の国】のドワーフたちのやり方だ。
しかし、ケルクスはその推察を否定する。
「……そうじゃない、エルフが良かったんだ」
「なんだって?」
社会的地位は関係ない、女をさらって殺したくらいの犯行はいくらでも揉み消せる。
「『闇の三姉妹』のファンなんだ……」
「ご機嫌取りのつもりか!」
出会ったときもそう言っていたが、その言葉はむしろ不愉快だ。
「ちがう、あの芝居で虐げられるエルフたちを見てとても興奮したんだ、だからどうしてもエルフを手に入れたかった」
ギュムはケルクスを殴った。
「やめてくれ!もうやめてくれ!」
「他のエルフたちはどこにやった?!」
「やめて、酷いことしないで……!」
リーンを手に入れた時点で全員殺した。
そんな相手を逆撫でするような発言はできずに泣きわめくしかない。
「本当のことを言え!」
──酷いことってなんだ?
この何百倍もの苦痛をリーンに与えた癖に、これまで何人にもそうしてきたくせに。
ギュムは体重を乗せた肘を炸裂させる。
「殺さないで!やだ、殺さないで!」
鬼気迫る姿にさすがに命の危険を感じ必死に命乞いをした。
怒りは収まらない、ケルクスの口から納得いく答えが出ないことで一発、二発、三発と機械的に打撃を加えた。
エマがギュムの腕にしがみついて止める。
「もうやめよう、やりすぎだよ!」
──やりすぎ?
リーンと見比べてとてもそうは思えない。
ギュムはケルクスに「おい!」と怒鳴った、しかしケルクスは意識は失っていて返答できなくなっている。
もう立ち塞がることもない。
「帰ろう、ね……」
ギュムを立ち上がらせようとするエマを「待て」と言ってノロブが引き止める。
「──このまま帰れば報復されるぞ。エルフを拷問されても罪に問えないが、オレたちがしたことは立派な犯罪だからな」
エマが不満を訴える。
「そんなの不公平だよ!」
相手はリーンを瀕死になるまで痛めつけた、こちらはせいぜい六発殴り返しただけだ。
それでも罰せられるのはこちらだけ。
相手が権力者だから、納得できなかろうとそれが現実。
ケルクスは必ずやり返してくる。
怒りは日を追う事に増し、放置しているだけで不安に苛まれる日々が続く。
そんな毎日に耐えられる訳がない。
心の平穏を取り戻すために、ありとあらゆる手を使って徹底的な報復にでるだろう。
「今度こそ殺るしかない、次に拐われるのはイーリスやニィハになるかもしれないからな」
ギュムたちもいつか来る報復に怯えながら暮らすことになる。
自分だけ逃げ回ればいいという問題じゃない、被害は近親者にも及ぶだろう。
外に出てしまえば個人の能力は関係ない、ケルクスに優位を取れるのは今だけだ。
ギュムは「クソ」とつぶやいて短剣を抜く。
「やめようよ! そんなのダメだよ!」
エマは怯えていた。
ギュムを立ち上がらせることができないほどに足が震えた。
リーンの惨状にでも、ケルクスの非道にでも、激怒するギュムの剣幕にでもない。
なにか決定的な喪失に向かいつつある予感に恐怖していた。
「人殺しなんてやめようよ……」
もはやそんなありふれた説得が通じる段階ではない。
コイツは何人も殺してきたのに、自分は一人殺すことも許されないのか。
そんな不公平があるか。
ギュムは答えを求める。
「じゃあ、今後コイツが誰かを殺すときはどうしたらいい、見て見ぬフリか!」
「わかんない! でも、殺されたら殺し返すじゃ、やってること同じだよ!」
「同じじゃない、快楽のために罪のない人の命を踏みにじることと、これ以上の犠牲者が出ることを食い止めることは同じじゃない!」
エマはやだやだと首を横に振る。
「──明日、仲間の誰かが死体で発見されたらどうするんだ? 殺しはダメだって言うならその先を聞かせろ!
こいつに殺された人たちが報われて、今後誰も殺されない方法を提示しておれを納得させろ!」
「わたしはギュムが人を殺すところなんか見たくないんだよ! そんなことしたら今までみたいにいられなくなる、絶対に後悔する!」
たとえそうだとして、なにもしないことを選択した結果、大切な人に危害が加えられたとしたら、それ以上に後悔するとは思えない。
「急げよ、生き残るのは変われる人間だけだぞ」
ノロブが口を挟む。
「──不正を行うことは悪じゃない、 バレた時にはじめて悪とされるんだ。皆やってることだ、やらなきゃ損なんだよ。勝つのはズルしてバレなかった奴だけだ」
「やりたくないからやらないってのはガキの甘えなんだろうな……」
「そうさ、直接殺したことのない人間も誰だって間接的には殺人に加担してる。一人しか主役になれない芝居があるとして、誰かが選ばれた時点で選ばれなかった人間がいるわけだからな」
席の奪い合いは人間社会の原則だ。
勝利を得るためには相手の人生を奪わなくてはならない。
「…………」
ノロブの言葉を否定してギュムを説得できる語彙力がエマにはない。
もう止められない、ボロボロと涙を流すだけだ。
ギュムはエマを振り返る。
「殺したくないよ、けど不公平だろ、この世界は先に踏み外したやつの一人勝ちだ」
解決するために殺したら悪党と同じ、それでも一方的にやられて泣き寝入りするよりはマシだ。
戦わずに差し出すだけの人生を送るよりずっといい。
「──見たくないなら出ててくれ」
ギュムにとってこれは成長だ。
障害に直面したときの選択肢が増え、次からはより迅速な判断ができるようになった。
人間として強くなった。
けれどエマにとっては挫折だった。
黒犬が人間に抱いた希望の正体は『未熟さ』だ。
それは未来を照らす希望ではなく、いずれ取り払われる枷だった。
優しさが世界を変えるなんて願望は見当違いの夢、憧れは幻だった。
エマは俯いてつぶやく。
「…………バイバイ」
そしてその場で黒い霧となり霧散して消滅した。
間をおいて、思い出したようにノロブがギュムに声をかける。
「……抵抗があるならオレが殺ってやろうか?」
重要なのはケルクスの口を封じることで、それは誰の手によるものでも構わない。
「そういう問題じゃない」
けれどギュムベルトは自ら手を下すことに拘った。
自分が決断したことを他人にやらせれば罪を逃れられるとは考えない。
理不尽に泣き寝入りせずに牙を剥く──。
これは自分で選んだ道だ。
ケルクスの頭部を固定するとその首を短剣で貫いた。
返り血を避けるように立ち上がると吹き出す血液で床が染まっていく。
罪悪感はない、後悔もない、同時に喜びも達成感もなかった。
ただ、仲間に危険が及ぶ可能性をすこしでも減らせた一点に安堵した。
ギュムはノロブを振り返って念を押す。
「このことは誰にも言うなよ」
自分が人を殺したことはどうでもいい。
この事件が『闇の三姉妹』をきっかけにして起きたことを隠したかった。
誰もそんなつもりであの舞台に立っていなかった。
自分の芝居がリーンをこんな目に合わせたのだと知ったとき、イーリスが受けるショックは計り知れない。
演劇を続けられなくなるかもしれない。
ギュムにはそれが耐え難い。
ノロブはリーンの意識が無いことを確認する。
「このことはオレたち以外には誰も知らない」
二人の意識からエマの記憶は抜け落ちている。
「──安心しろ、隠し事は得意だ」
その点に関しては奇妙な信頼感がある。
仲間たちにどこまで隠しきれるかはリーン次第になるが、二人は可能な限りシラを切るつもりだ
その後は誰とも遭遇することなく脱出し、無事にリーンを連れて『鉄の国』へと帰還できた。
絶望的な負傷もニィハの【治癒魔術】によって順調に回復している。
劇団はまたいつも通りの日常を取り戻しつつある。
ただし、偽のエマがギュムたちの前に姿を現すことは二度となかった──。