高山は4年生になっていた。来年には卒業を控えており、将来のことを真剣に考え、決めなければならない。
だが昨年、伊達に会いに行って以来、普段の稽古や将来に対する考えがなかなかまとまらず、いたずらに時を過ごしていた。周りは就活で忙しく動き回っており、自身も時間の余裕がなくなっていることに焦りを感じていた。しかし、内弟子のことが頭から離れない。
就職活動にも身が入らず、大手の優良企業から内定が出ていたが、断っていた。両親にこのことは話していなかった。指導教授も高山の将来を心配し、いろいろと相談に乗ってくれていたが、話が頭の中に染み込んでいかない。
そういう時、高校時代の友人、田口から電話が入った。
「よう、高山。久しぶり。どうしてる? お前、もうすぐ卒業だろう? 就職決まった? 今度会おうよ」
突然の電話だったが、久しぶりに聞く友達の声に一瞬、今抱えている悩みが消えた。
いろいろ話すことで、そこから何かいい考えが浮かぶかもしれない、という淡い期待が湧いてきたので、会う約束をした。
数日後、高山は約束の喫茶店を訪れた。田口はすでに来ており、高山はすぐに田口の姿を見つけた。
挨拶もそこそこに2人は飲み物をオーダーし、話し始めた。注文したものが来るまで当たり障りのない話をしていたが、高山はすでに社会人になっている田口の、社会人としての様子を尋ねた。
「田口、お前は高校卒業して働いているけど、どう?」
高山は注文したアイスコーヒーを飲みながら言った。
「どう、って聞かれても困るけど、確かに学生とは違うよ。現実ってことをすごく実感している。高山ももうすぐ分かると思うけど、自由にやれる部分もある反面、責任も出てくるし…。以前みたいにバカなこともできないよ」
目線を少し逸らしながら話す田口の様子に、学生時代とは明らかに異なる様子を感じた。
しかし、社会人としての経験がない高山には、学生時代の思い出しか語れない。昔、田口と一緒に過ごした楽しかった時間を振り返った。
「そういえば、明け方まで騒いでいたこともあったな。お前のおふくろさんに叱られたりもしてさ。朝寝坊しても、いいや、学校休んじゃえ、ってことでもOKだったし…。大学なんかもっとアバウトだったけど、楽しい時間を過ごせたよ」
「ところでお前、高校の時から空手やってたよな。大学では主将やってたんだろ?」
田口のほうから空手の話を振ってきた。高山にとって、社会人になっても続けられるかどうか心配だった分、その可能性についても尋ねてみたかった。だから、このような話の展開は渡りに船だった。
「よく知ってるな。俺が主将になって、学生の大会で優勝したりして、すごく充実してたな。でも、社会人になると、もう今までみたいに空手もできなくなるしな。なかなか自分の時間、取りにくいものだろう?」
「そうだな。残業や休日出勤なんか考えたら、何かやろうと思っても時間なんか取れないよ。へたなことやると、もう明日から来なくていい、なんて言われちゃうしさ。きびしいよ」
「お前、昔やっていた音楽、どうなの?」
「できるわけないよ。俺と一緒にやっていた鈴木、覚えているか? あいつも大学に進んだけど、社会人の俺とは全然時間が合わせなくなって、まったく何もやっていない。あの頃が懐かしいよ」
昔話は思い出として懐かしく感じるが、時折出てくる社会人の先輩としての田口の言葉には、言いようのない現実感があった。高山は、大学を卒業したら自分も現実の中で、夢とは関係ない毎日を繰り返すのかと感じていた。
「俺、時々、もし高山みたいに人に自慢できるものがあったらどうしていたかなって思う時があるんだ。俺がやっていた音楽なんて、まったくの趣味だったからな…。高校生の時もそうだったけど、社会人になってから余計にそう思うんだ。まあ、無いものねだりかもしれないけどね」
田口のこの言葉は、高山の心の中にまた、伊達のことを蘇らせるきっかけになった。
そうだ、自分には空手があるんだ、武道があるんだ、活殺自在の境地を目指したいという気持ちがあるんだ、という心の叫びが聞こえてきた。
田口とは2時間足らずの話だったが、最後に自分の心の中の声を聞いたことに、高山は満足だった。