現実は高山の心の声を聞き届けてくれなかった。高山は卒業後、地元の企業に就職したのだ。
いろいろ相談しても、圧倒的に将来が見えない道に進むことに反対の声が高かった。高山にとっては、たとえ就職してもそれで見える将来というのは平凡な人生であり、それで良いのかという疑問はあったが、周囲の声に抗するだけの強さは持ち合わせていなかった。
心の中に伊達のことが引っかかってはいたが、そのまま何の連絡もせず、内弟子の話は現実の生活の中に埋もれていった。新社会人の高山には、毎日の業務をこなすことで精一杯だったのだ。そういうことが2年続いた。
そんなある日、会社を退職する永井の送別会が行なわれた。定年ではない。自分のやりたかった飲食の仕事をやるためだ。辞めたらお店を開くという。励ましの意味も含めて、親しい者同士で会は盛り上がった。
「このたび、私のためにこのような席を設けていただき、ありがとうございます。皆様の励ましに応え、一生懸命頑張ります」
主賓の永井の挨拶だ。その顔や声には、自分の夢、新しい世界にジャンプする希望が溢れていた。
永井の同僚はみんなグラスを手にして、新たな旅立ちを激励した。
「いいぞ」
「これからも頑張れ。応援するぞ」
「私もお店に行くからね」
送る者と送られる者、それぞれの立場からのコメントが続き、宴はピークを向かえた。
永井は出席者一人一人の席を回った。やがて高山の席にもやってきた。出席者のほとんどはすっかり酒が回っているが、主賓の永井はほとんど飲んでいない。飲む以上に、自分の夢の実現に舵を切ったことに酔っていた。
永井はこれまで高山に対して説教らしいことは何も言わなかったが、こういう席だからこそこれまで思っていたことを告げた。永井の目には、高山が同世代の社員とちょっと違って映っていたのだ。
「おい、高山。俺はこれで会社を去るけど、後はよろしく頼むよ。2年間、お前を見てきたが、お前には同じ年代の若者にはないものがあると思う。その良さを、これからも会社のために役立ててくれ。でも、もし自分で何かやりたいと思ったことがあるなら、会社を辞めて頑張ろうと思った俺の考えなんかも聞いてくれ。力にはなれないかもしれないが、何かのヒントくらいにはなるかもしれないからな」
仕事の時とは異なった真剣なまなざしで言った。
「ありがとうございます。その時は相談に乗ってください」
酒席での話のため、その場では本気にしなかったが、身近なところから自分の夢を叶えるため新しい活躍の場を自ら切り開く姿には、多少なりとも感動を覚えていた。
ふと、ここで伊達のことを思い出し、自分の場合はそれが内弟子に入るということだったかもしれないなと思った。しかし、両親も含め、会社の同僚などの関係上、それはもはや叶わぬ夢と考えていた。
数ヶ月後、会社の同僚から永井の店が軌道に乗り、どうやら成功の道を歩み始めたらしいとの話が伝わってきた。昼休みの時、そのことが話題になっていた。
「永井さんの店、評判良いらしいよ」
「そう言えばこの前のタウン誌に、新規開業の店ということで紹介されていたよな」
「私も見た!」
「以前ご自宅にお邪魔した時、永井さんの手料理、美味しかったしね」
口々に永井の店の成功を喜んでいた。
良かった。高山は心の中で思った。
同時に、自分の夢を自分の手で実現した永井に無性に会いたくなった。矢も盾もたまらず、高山は仕事の合間に永井に電話をした。
「永井さん、高山です」
突然の電話に永井は驚いたが、快く応対した。
「しばらく。会社はどう?」
「まあまあです。お店のほう、順調のようで…」
「これからだよ。少しずつ手応えを掴んでいる、というところかな。良かったら今度お出でよ。美味しいものをご馳走するよ」
「ありがとうございます。改めてお話を伺いたいこともありますので、お邪魔させていただきます。次の日曜日は大丈夫ですか?」
「OK。日曜日は11時に開店だから、9時くらいに来てもらったら、多少話せると思う。いい?」
「朝の準備は大丈夫ですか?」
「心配ない。かみさんも仕込をやっているから…」
「ありがとうございます。ではお邪魔させていただきます」
この時の高山の心は、最近には珍しいくらいウキウキし、久しぶりの高揚感を感じていた。自分の夢を叶え、実際に頑張っている人の生の声を聞くことに、大変興奮したのだ。
受話器を置いた途端、次の日曜までの時間が気になり始めた。