この話を聞いても全員、分かったような分からないような表情になっている。伊達は、内弟子のカリキュラムとして空手道の稽古だけでなく「活」としての整体術も習得させる意義を説くが、今一つ反応が鈍いのだ。そこで、テーマを少し変えて話すことにした。
「今回は高山君の蹴りが堀田君の金的に当たったという事故だったが、高山君、その時本気で蹴ったかい?」
伊達が高山のほうを向いて質問した。
「いえ、危ないと思ったので、できれば止めようと思いました。でも間に合わなくて」
責められているわけではないが、やはりどこか申し訳ないという気持ちがあるために、少し暗い感じの声で返事をした。
蹴ろうと思って蹴ったのではないことを説明した高山だが、伊達にはそれは分かっていた。しかし、それを高山の口から言わせることで他の内弟子に伝わるようにしたのだ。
「今の話から、高山君は咄嗟に事故を防ごうとした、というのは分かるね。そして、もしそれがちょっとタイミングが違っていたら、高山君のほうが怪我をしていたかもしれない。そういう紙一重の差だったんだ。ここで注目しなければならないのは、瞬間的に事故防止の『心』が作用した点だ。もし、相手を倒すことだけを目的とした稽古なら、隙ができたら迷わず打ち込む、となるだろう。しかし高山君はそれをしなかった。それが実は『武の心』につながっていくんだ。『武』の究極は戦わないことであり、同時に死を意識した立場から充実した生き方とはどういうものかを考える哲学でもあるんだ。人を倒すための技術が生きるため、人生のための哲学になるというのは分かりにくいことだが、活殺自在というのはそれを具体化する方法であり、考え方なんだよ」
こういう説明でもまだ要領を得ない、といった表情だ。
しかし無理もない。伊達自身も今はこのような話が自分の心の中から出てくるが、振り返ってみると、目の前にいる内弟子と同じような年頃では理解していなかった。だから、これから経験するいろいろな出来事の中で、少しずつこの意識を浸透させていこうと思った。
同時に伊達の脳裏には、その頃に教えを受けていた師の思い出が蘇っていた。
今は武を説く立場だが、同じ年代ではただひたすら強くなることだけを意識していた伊達。
その中には先輩を蹴り倒し、入院させた経験がある。
回復までとても気持ちが重くなり、後遺症なども心配した。
今、内弟子として集まっている門下生にはできるだけ同じような気持ちになってほしくないし、これからも十分注意して精進して欲しいという気持ちが心の中に満ちていることを感じていた。