彼女が砂浜を歩きたいと云ったので、海岸へと降りる階段を見つけ、夕暮れの砂浜に僕たちは降りた。
タイミングよく、沈みかけの太陽が水平線の少しに上にいた。
海風が吹き、思った以上に涼しい。
彼女は裸足になり、さらに涼を求めて波打ち際を歩いた。
僕もそれにつづく。
「気持ちいいね」
彼女の声と波音。彼女の髪を海風が揺らす。
完璧だった。圧倒的な幸福感が押し寄せてくる。
しかし寄せては返す波を素足に感じながら、ふと、今度は不安にのまれた。
彼女が、好きで、好きで、好きで、たまらない。
このままずっと、僕のフェネチルアミンが分泌しつづけてしまったら、僕はどれだけ彼女を好きになるんだろう。
一説によると、フェネチルアミンの継続した分泌は、せいぜい半年、長くても3、4年だと聞く。
果たして、そうだろうか。
彼女を愛することに、際限などない気がする。
そのうち僕のフェネチルアミンは化学反応を起こして、さらに強力な恋愛ホルモンと化すのではないだろうか。
もし、一時も彼女と離れられなくなってしまったらどうしよう。
現実問題として、十分ありえる。
「アルキメデス、うざい」
そう言われないように、思われないように、僕はこの感情をコントロールしなければならない。果たして僕に、上手にできるだろうか。
そんな不安に襲われていたとき。冷えた指先に感じたぬくもり。
僕の手に指を絡め、
「もう少し、歩く?」
夕陽に照らされ、頬を染めた彼女が笑った。
「のんびり歩いていこう。海は果てしないから」
彼女はいつも、僕の手を引いてくれる。
ああ、キミが好きだ。
僕の欲望には、キリがない。
ああ、はやく彼女と結婚したい。
将来の夢と願望を再認識した僕は、彼女とつなぐ手に力をこめる。
ぜったいに、離さない。
僕の握力の変化に、海をみながら砂浜を歩いていた彼女が振り返った。
「アルキメデス? どうしたの?」
「ごめん、痛かった?」
「大丈夫だけど、何かあったの?」
彼女は僕の変化に敏感だ。ジッと僕を見上げてくる。
その瞳が、とてもキレイだ。
気づいたとき、僕は願望を口にしていた。
「ミナミ、僕と結婚して」
ふたりきりとき、僕は彼女を名前で呼んでいいことになっている。
夕日に照らされた彼女の顔が、真っ赤になった。
「な、な、何、急に! どうした!? いろいろと早いって!」
焦って照れる彼女は、さらに愛しい。
僕は彼女といるだけで、幸せで溶けてしまいそう。
「早いかなあ」
「だれに訊いても、早いっていうよ」
「そうかなあ」
とりあえず、指輪だけは用意しておこう。
僕としては法律で婚姻可能な年齢になりしだい、すぐにでも彼女と結婚したいけれど、常識人である彼女は、赤い顔で歩きながら将来についてこう云う。
「大学を卒業して、社会人になって、安定した収入を得て、お互い自立してからじゃないとね!」
「うん」
「愛があれば~みたいな考え方もあるだろうけど、わたし的にはそうじゃないのよね。やっぱり、社会人になって経験を積んで、ある程度の経済力を得てからの結婚の方が、絶対に長続きすると思うのよ」
「うん。ちなみに、結婚するにあたって、ミナミはどれくらいの年収だったらいいの?」
「年収? そうだなあ……これぐらいかな」
僕の耳元で、彼女がささやいた。
「それは、控えめな数字?」
「まさか、少し多めに云ったつもり」
「ふーん。わかった」
「わかってくれたなら、よかった」
また彼女は、僕の手をひいて砂浜を歩きはじめる。
ふたりで年収800万円。
それが、つつましい彼女の理想とする世帯年収だった。
18歳の誕生日に、僕は伝えようと思う。
『ミナミ、僕はすでに10の特許を持っているから、すでにその数倍の年収があるよ』
しかし、それで彼女は納得してくれるだろうか。
常識人たる彼女には、僕にはうかがい知ることのできない「常識とは」という、世間一般論的な考えがあるのだろう。
世間一般からかけ離れている非常識人の僕に、立ちはだかる常識の壁は高い。
それを無視して、僕のエゴで無理やり結婚して、彼女に嫌われたらどうしよう。
ああ、彼女と付き合いはじめて、僕は極端な臆病者になってしまったな。
それでも僕は、嬉しい。
彼女限定で毎日、一喜一憂できるようになったから。
なんて人間らしい感情なんだろう。
彼女の彼氏になれたことに至福の喜びを感じていたときだった。
太陽が半分沈みかけた海を、彼女が指差した。
「再来週の土曜は、あの辺りから1万発の花火が打ちあがるんだよ」
その言葉に――
僕は一憂どころか、十憂くらい
あれは、1ケ月ほど前。
僕と彼女が付き合いはじめる少し前のこと。
約束したことがある。
「ねえ、アルキメデス。今年はキレイな花火を見に行こうよ。来月の花火大会、いっしょに行ってくれる?」
数日前まで、僕の最優先事項は、今年の花火大会デートだった。
それなのに、イタリアで暮らす両親から、エアメールが届いたあの日。
偶然にも僕の家に遊びに来てくれていた彼女は、テーブルに放置したままだった、航空券とエアメールを目にしてしまった。
僕はどうして、手紙を放置していたのだろうか。
アナログ派の両親がメールさえ使ってくれていたら。
インターネットで航空券を予約しておいてくれたら。
後悔しても遅かった。悔やんでも悔やみききれない。
「あれ、アルキメデス。夏休みにイタリアに行くの? そうかあ、それじゃあ残念だけど、花火大会は来年だね」
あえなく花火デートは、来年にもちこしになった。