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第5話 年収と花火



 彼女が砂浜を歩きたいと云ったので、海岸へと降りる階段を見つけ、夕暮れの砂浜に僕たちは降りた。


 タイミングよく、沈みかけの太陽が水平線の少しに上にいた。


 海風が吹き、思った以上に涼しい。


 彼女は裸足になり、さらに涼を求めて波打ち際を歩いた。


 僕もそれにつづく。


「気持ちいいね」


 彼女の声と波音。彼女の髪を海風が揺らす。


 完璧だった。圧倒的な幸福感が押し寄せてくる。


 しかし寄せては返す波を素足に感じながら、ふと、今度は不安にのまれた。


 彼女が、好きで、好きで、好きで、たまらない。


 このままずっと、僕のフェネチルアミンが分泌しつづけてしまったら、僕はどれだけ彼女を好きになるんだろう。


 一説によると、フェネチルアミンの継続した分泌は、せいぜい半年、長くても3、4年だと聞く。


 果たして、そうだろうか。


 彼女を愛することに、際限などない気がする。


 そのうち僕のフェネチルアミンは化学反応を起こして、さらに強力な恋愛ホルモンと化すのではないだろうか。


 もし、一時も彼女と離れられなくなってしまったらどうしよう。


 現実問題として、十分ありえる。


「アルキメデス、うざい」


 そう言われないように、思われないように、僕はこの感情をコントロールしなければならない。果たして僕に、上手にできるだろうか。


 そんな不安に襲われていたとき。冷えた指先に感じたぬくもり。


 僕の手に指を絡め、


「もう少し、歩く?」


 夕陽に照らされ、頬を染めた彼女が笑った。


「のんびり歩いていこう。海は果てしないから」


 彼女はいつも、僕の手を引いてくれる。


 ああ、キミが好きだ。


 僕の欲望には、キリがない。


 ああ、はやく彼女と結婚したい。


 将来の夢と願望を再認識した僕は、彼女とつなぐ手に力をこめる。


 ぜったいに、離さない。


 僕の握力の変化に、海をみながら砂浜を歩いていた彼女が振り返った。


「アルキメデス? どうしたの?」


「ごめん、痛かった?」


「大丈夫だけど、何かあったの?」


 彼女は僕の変化に敏感だ。ジッと僕を見上げてくる。


 その瞳が、とてもキレイだ。


 気づいたとき、僕は願望を口にしていた。


「ミナミ、僕と結婚して」


 ふたりきりとき、僕は彼女を名前で呼んでいいことになっている。


 夕日に照らされた彼女の顔が、真っ赤になった。


「な、な、何、急に! どうした!? いろいろと早いって!」


 焦って照れる彼女は、さらに愛しい。


 僕は彼女といるだけで、幸せで溶けてしまいそう。


「早いかなあ」


「だれに訊いても、早いっていうよ」


「そうかなあ」


 とりあえず、指輪だけは用意しておこう。


 僕としては法律で婚姻可能な年齢になりしだい、すぐにでも彼女と結婚したいけれど、常識人である彼女は、赤い顔で歩きながら将来についてこう云う。


「大学を卒業して、社会人になって、安定した収入を得て、お互い自立してからじゃないとね!」


「うん」


「愛があれば~みたいな考え方もあるだろうけど、わたし的にはそうじゃないのよね。やっぱり、社会人になって経験を積んで、ある程度の経済力を得てからの結婚の方が、絶対に長続きすると思うのよ」


「うん。ちなみに、結婚するにあたって、ミナミはどれくらいの年収だったらいいの?」


「年収? そうだなあ……これぐらいかな」


僕の耳元で、彼女がささやいた。


「それは、控えめな数字?」


「まさか、少し多めに云ったつもり」


「ふーん。わかった」


「わかってくれたなら、よかった」


また彼女は、僕の手をひいて砂浜を歩きはじめる。


ふたりで年収800万円。


それが、つつましい彼女の理想とする世帯年収だった。


18歳の誕生日に、僕は伝えようと思う。


『ミナミ、僕はすでに10の特許を持っているから、すでにその数倍の年収があるよ』


しかし、それで彼女は納得してくれるだろうか。


常識人たる彼女には、僕にはうかがい知ることのできない「常識とは」という、世間一般論的な考えがあるのだろう。


世間一般からかけ離れている非常識人の僕に、立ちはだかる常識の壁は高い。


それを無視して、僕のエゴで無理やり結婚して、彼女に嫌われたらどうしよう。


ああ、彼女と付き合いはじめて、僕は極端な臆病者になってしまったな。


それでも僕は、嬉しい。


 彼女限定で毎日、一喜一憂できるようになったから。


なんて人間らしい感情なんだろう。


彼女の彼氏になれたことに至福の喜びを感じていたときだった。


太陽が半分沈みかけた海を、彼女が指差した。


「再来週の土曜は、あの辺りから1万発の花火が打ちあがるんだよ」


 その言葉に――


 僕は一憂どころか、十憂くらいうれいだ。


 あれは、1ケ月ほど前。


 僕と彼女が付き合いはじめる少し前のこと。


 約束したことがある。


「ねえ、アルキメデス。今年はキレイな花火を見に行こうよ。来月の花火大会、いっしょに行ってくれる?」


 数日前まで、僕の最優先事項は、今年の花火大会デートだった。


 それなのに、イタリアで暮らす両親から、エアメールが届いたあの日。


 偶然にも僕の家に遊びに来てくれていた彼女は、テーブルに放置したままだった、航空券とエアメールを目にしてしまった。


僕はどうして、手紙を放置していたのだろうか。


アナログ派の両親がメールさえ使ってくれていたら。


インターネットで航空券を予約しておいてくれたら。


後悔しても遅かった。悔やんでも悔やみききれない。


「あれ、アルキメデス。夏休みにイタリアに行くの? そうかあ、それじゃあ残念だけど、花火大会は来年だね」


あえなく花火デートは、来年にもちこしになった。





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