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第6話 キス



 憂いの理由は……今日のピザ屋での出来事。


 この夏、僕の最優先事項だった花火大会のことを、水沢さんが話題にしたとき。


「今年はちょっと行けないんだよね。アルキメデスはイタリアに行ってるから」


 彼女が告げた瞬間だった。


「えっ、本当に! やったあ! じゃあ、ミナミ、わたしたちと一緒に見に行こうよ!」


 デリカシーの欠片が1ナノグラムもない水沢さんが、喜び勇んで彼女を誘った。


 なにが、「やったあ!」だっ!


 彼女の親友じゃなかったら、そのデカイ口に液体窒素を流し込んでやるところだ。


 嬉々として誘う水沢さんに対して彼女はというと、


「う~ん、それはちょっと。マユミとハルノブの邪魔はしたくない」


 口から泡を噴きそうになっている観音寺を見て、1度は断っていた。


 ―― が、しかし。単細胞な水沢さんには、そういった気遣いは伝わらない。


「ええっ! なんで!? ミナミのこと邪魔だなんて、そんなのあり得ないよ!」


 彼女の断りの理由を真っ向から否定した水沢さんは、よりにもよって観音寺に話しを振った。


「ハルくんだって、ミナミといっしょに行きたいよね!」


 この状況で「行きたくない」といえるヤツは、世界人口の1パーセント未満だと、非常識人の僕にだってわかる。


 観音寺は非常に複雑な表情で、「い、行きたいようぅぅ」と尻すぼみに応えた。


「ほら、ハルくんだって、いっしょに行きたいって!」


 額面どおりにしか受け取れない単細胞は、半ば強引にふたたび彼女を誘った。


「だってキリシマはイタリアなんでしょ。だったらなおさら今年行かないと! だってさあ、この変人のことだから、来年からは絶対にミナミとふたりで行くとか云いそうだしさ!」


 デリカシーの欠片はないが、そこは間違っていない。


 無理強いする水沢さんに、ついに彼女も折れた。


「じゃあ、ちょっとだけ見に行こうかな」


「やったあ、すっごく楽しみ!」


 手をたたいて喜ぶ水沢さんの隣りで、意気消沈する観音寺であったが、水沢さんの次の発言で一気にテンションが上がった。


「ねえ、ミナミ。せっかくだから浴衣着て行こうよ」


「水沢さんのぉ! ゆ・か・た!」


 観音寺につづき、僕も思わず口にする。


「ゆかた……東山さんの浴衣姿」


 ―― 見たい。


 すごく、見たい。身を乗り出した僕と観音寺の目の前で、水沢さんと彼女の話しがまとまっていく。


「浴衣かあ、いいけどまだ家にあったかなあ。たしか、最後に着たのはマユミと行った夏祭りのときだから、もう5年くらい前だよ」


「問題ナシ! このまえ撮影で使った浴衣セットが2つあるの。明日、写真持ってくるから好きな方選んで」


「えっ、いいの?!」


「もちろん、着物メーカーの人からガンガン着てくださいって渡されてる分だからさ。これも宣伝よ。だから、メイクもヘアもばっちり決めて行こう」


「わあ、なんだか楽しみになってきた」


 彼女同士の会話に、身を乗り出した僕と観音寺は対称的だった。


「水沢さんの浴衣姿が見られるなんて! 僕って幸せ者~~」


「東山さんの浴衣姿を見逃すなんて、なぜ僕はイタリアに……」


 夕日色に染まった海面を指差す彼女。


 浴衣を着た彼女と花火を見上げるはずだった砂浜で、寂しさから僕は、彼女を抱き寄せた。


「東山さんと……見たかった」


 彼女もまた、僕の背中を抱きしめてくれた。


「わたしも見たかったよ」


 ポンポンと僕の背中をたたいて、慰めてくれる。


「花火の写真が上手に取れたら、添付して送るね」


「花火より、浴衣がいい」


「わかった。ハルノブに、マユミと一緒に写してもらうから」


「水沢さんはいらない。ミナミだけでいい」


「……了解。アルキメデスはイタリアで楽しく過ごしてね」


「うん」


 太陽が沈む瞬間。


 僕は、彼女にキスをした。


 奇跡が起きたのは、それから数日後だった。


 イタリアの両親から、メールが届いた。


  ✉ 涼ちゃん、ごめん!


 ローマにある建築デザイン事務所で働いている母からのメッセージは、謝罪からだった。


 内容は、明日から急遽、フィレンツェに出張になってしまったというもの。


  ✉ じつはお父さんもね……


 突然の出来事は重なるもので、イタリアの大学で建築美術史の教授をしている父もまた、古代建築技術の専門家としてイタリア政府が選抜する古代遺跡調査のメンバーに選ばれ、現地で仕事の準備に取り掛からなければならなくなった。


 つまりは、僕がローマに行っても、両親は不在だということ。


 イタリア行きの選択権は、もちろん僕に委ねられた。


 そのままひとりで、ローマで過ごすか。


 父か母の元を訪れるか。


 もしくは、イタリア行きを中止するか。


 この奇跡に、僕は心の底から歓喜した。


 ✉ 気にしないでいいよ。僕は、日本で過ごすから。


 嬉し喜んでいるのを両親に気取られないように、いつも以上に簡潔に返信した。


 そして僕は、喜び勇んで彼女の電話をかけた。


「ミナミ、僕と花火大会に行こう」



 △  △  △  △



 花火大会当日。


 僕は、待ち合わせ場所で、観音寺ハルノブと並んで待っていた。


「――で、なんで大馬鹿者がいるんだ?」


「こっちが聞きたいよ! イタリアはどうした?!」


「奇跡が起きて、僕は今日、ミナミと花火大会デート」


「薄気味悪い笑顔だな――って、ミーズーサーワーさーん! ひーがーしーやーまーさーん!」


 浴衣姿のふたりを見つけた観音寺が大きく手を振った。


 僕は……何もできなかった。


 薄紅色の浴衣で歩いてくる彼女を、ただただ見つめることしかできなかった。


「アルキメデス、おまたせ」


「ぜんぜん、ぜんぜん、いいんだ。ミナミが来てくれるなら、僕は1年だって、2年だって待てるから」


「おおげさだなあ。時は金なり、だよ」


「キミのために使うからこそ、僕の時間には価値が生まれるんだ」


 僕と彼女の価値ある会話に割り込んできたのは、やっぱり割箸わりばし女の水沢さん。


「ちょっと、キリシマ! アンタ、イタリア行きが中止になったからって、ミナミを独占できると思ったら大間違いよ! わたしだって、ミナミと花火みるの楽しみにしてたんだからっ!」


 相変わらず不協和音でしかない声を響かせた水沢さんは、ひととおり騒いでから、クルリとターンを決めた。


「これ、この間の撮影で使った今夏の最新作。どう?」


 割箸体型の水沢さんが着ているのは、白と灰の横縞模様の浴衣。


 大馬鹿者は「すっごく似合ってるよ!」といい、彼女も笑顔で褒めた。


「スタイリッシュ~ マユミにしか着こなせないよ~」


 気を遣っているのだろう。


 僕には、極細の横断歩道にしか見えなかった。


 水沢さんの浴衣に感想を述べることなく、僕はミナミの手を引いた。


「行こう。僕は今日、キミさえいてくれたらそれでいい。それから……今日の浴衣、とても似合っている」


 彼女の耳元でささやく。


「ミナミが、世界でいちばん綺麗だよ」


 彼女の火照った頬とうなじに、僕はゾクリとした。






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