ルティは研究室の端末に幾度もエラーの表示を出し、ヒューガに振り返って溜め息をついてみせる。
「駄目ねー。前に掘れてた場所も全滅。見える限り全ての領域で『キャロライン・ディアリス』は、存在しないことになってる」
「……念入りだな」
「ご丁寧に出生記録や亡き両親の扶養記録からさえ消されてるわー。最初から彼女は、生まれなかったことになった」
「…………」
これが、軍の力。
あるいは、前線都市の住民の命の軽さ、ともいえる。
旧大陸の再征服のための労働力、という体裁で送り出されてはいるが、実際は本国から余分な人口を追い出すための方便なのは誰もが知っている。
厚遇されているようで、実際は棄民。いくらでも代わりはいる、梱包材のひとかけらに等しい存在。
「……ルティ。こういう場合、生きてる可能性は……あるのか?」
「さーねー。引きこもりエンジニアとしちゃ、ネットから手の届く情報以上に現実を知る機会はないわよー」
「…………」
ルティなら知っていそうな気もするが、あえてヒューガに現実を突きつけたくはないのかもしれない。
ゴールダスやサーク隊長に尋ねたところで、希望のある答えが返ってくることはないだろう。
(知ってどうなる。こうまで念入りに「消され」ているというのに、駄々をこねる余地があると思うのか)
(だけどさ……)
(今回ばかりはもう、お前ができることはない。あの娘をまともに説得できなかった時点で、流れは決まっとった)
(……冷たいだろ、それで終わっちゃ)
(冷たいだの暖かいだの、所詮気持ちの問題でしかないではないか)
(…………)
救えた可能性は、どこかにあったのか。
彼女を
ヒューガはベッドに座り込み、悶々とするしかなかった。
◇◇◇
ヒューガが落ち込もうがどうしようが、日常は続いていく。
学校の友人たちは、一人の少女が「消された」ことなど知る由もない。
前線都市同士で人口が流動することも、あるいはハンティングで誰かが帰らずに終わることも、この街では珍しくもない。高校に通う、通わないといったことさえ(優遇はあるにせよ)自由である以上、親しくもない誰かが学校に一人来なくなったくらいで気にする人間はそういないのだった。
ヒューガとしても、彼女が消えたことを声高に言い回ることはない。
結局、軍のやっていることに市民は逆らえはしない。どうにもならないのだ。
が、彼女の残した爪痕によって様子がおかしくなっている人間は確実に一人いた。
ジュリエットだ。
「ね、ねえっ、ヒュー兄っ……あ、いやっ、ヒューガ君っ」
「……すげえ昔の呼び方引っ張り出してきたな」
「あ、あう……」
出会ってごくごく短期間、ジュリエットからそう呼ばれていたのをヒューガも覚えている。
彼女の母から「お兄ちゃん」認定されて以降、その呼び方はされていなかったはずだ。
すぐに「お兄ちゃん」になり、本当に兄妹? と人に幾度か聞かれてからは「ヒューガお兄ちゃん」など多少調整を挟み「ヒュー兄」に落ち着いている。
が、ジュリエットはもどかしい顔で唸り、結局何も言わずに駆け去る。
「なんだったんだ……」
「最近元気がないよね、ジュリちゃん」
クライスも心配そうにする。
どうもヒューガとの距離感を調整しようとしているのではないか、というのはなんとなくわかるのだが、それとは別に用事があったのではないか、と少し心配にもなる。
距離感調整の理由としては……やはり、あのキャロラインが迫る場面を見られてしまったのが大きいだろう。
ヒューガに子供みたいな感覚でベタベタしてはいけないのではないか、とか。
実は感触とか意識されているのかも、とか。
本来の男女ならとっくに意識していたはずの問題を、幼馴染という近すぎる関係で今まで忘れていたのではないだろうか。
とはいえ、ヒューガとしてはそれをとやかく言える義理はない。
常から塩対応してしまっているのもあるし、キャロラインについて触れることが不毛と分かっている以上、話をそちらに向けるのも憚られる。
兄と慕ってくれていた距離感が是正されるのは寂しくもあるが、それが遅すぎただけなのだ、と思うことにした。
◇◇◇
……のだが、また別の日には逆に過剰に抱きついてきたりもする。
「や、やけにヒューガにベタベタしてない、ジュリ?」
リステルがたじろぐほどに。
「べっ、別にいつもこんな感じだもん」
「いつもではないでしょ、いつもでは」
「仲良しを通り越して子ザルみたいになってんぜぇ」
ジェフリーにもからかわれるが、ジュリエットはなかなか放してくれない。
というより、ハグが必死過ぎてミシミシ言っている。
「……大丈夫、ヒューガ?」
「……まあ死ぬことは多分ないと思う……」
「いやジュリが本気出すと多分死んじゃうよ、普通の人間だと」
「特に殺される覚えはないし……」
「死にそうなときはちゃんとタップしないと駄目よ。内臓破裂みたいに出血ポイント多い場合は簡易治療キットだと間に合わないことあるらしいから」
真顔で壮絶なことを言うリステル。ジュリエットが加減を誤るとそれが充分あり得る、というのがパーティの共通見解のようだ。
……多分、ジュリエットに殺意があるわけではない。
無邪気で明るい彼女のことだ。きっと前回、変に距離を置くような行動をしてしまったのを気にして、逆に距離を詰めようとしているだけなのだろう。
というのはわかっているのだが、ヒューガはそれを暖かく受け止めてやる精神的余裕がなく、頭でも撫でてやりたいと思いつつも吐き気を抑えるような顔になってしまっている。
ジュリエットがしばらく遠巻きにしていたせいで気づかなかったのだが、どうやらキャロラインの件はヒューガにも強いトラウマを残しているようだった。
女の子の体温を感じると、キャロラインの強い目がフラッシュバックする。
心臓が掴まれるような感触を覚えてしまう。
あの「
そんなはずはないのだ、とわかっている。
彼女はヒューガを道具として利用しようとしただけなのだ。優柔不断に揺れていただけのヒューガに、失望こそすれ強い感情などないはずだ。
だが、それでもヒューガにとって苦い失敗であり、まだとても「過去」のことにはできなくて。
ジュリエットが強く抱きつくその感触も、前は普通に受け流せていたのに、今はただ、苦しい。
意識するたびにあの目が心臓を掴んでくる。握り潰そうとしてくる。
(だいぶヤバくないかお前……)
(……正直ちょっとどうしていいかわからない)
(パニック障害とかいう奴じゃないのかそれ)
(……悪い、言い合いする余裕もない)
その激流に、名前を付けようと思えば簡単なのだろう。
当事者以外は、「なんとか障害」と名付けてしまえばあとは片付けるだけの話なのだろう。
だがヒューガの精神を一気に追い詰めるそれに、どう向き合えばいいのか。
抗うべきか受け入れるべきか、自分のせいじゃないんだと投げ捨てるべきか、ヒューガはそれすらわからない。
(……重症じゃな。代わるぞ)
(…………助かる)
リューガはついに見かねて、ヒューガを精神の「奥」側に押し戻す。
そして強張りきった体を軽く弛緩させ、一息。
ジュリエットの腕力は強いが、リューガが表に出たことによる微妙な竜化でも肉体的な強度は格段に上がる。耐えられなくはない程度に収まる。
「ジュリ。あまりそういう……」
できるだけヒューガになりきって、リューガはジュリエットをあしらってやろうとする。
そして、どうせなら今のうちにジュリエットに「いい顔」をしてやろうかと思い直す。
なんだかんだで、ヒューガはツバサに矢印を向けているつもりながらも特に何もできていない。
そして、キャロラインに少し色仕掛けされたぐらいで大いに揺れる程度の「男の子」ぶりだ。
例え不可抗力的な流れでもジュリエットといい感じになれば、結局それを振り捨ててまで自分勝手な恋に邁進出来はしまい。
と、ジュリエットを抱きしめ返してやろうとすると、ジュリエットは急にスッと離れる。
「……なんかヒュー兄、変……」
「!」
リューガは硬直する。強くしがみついていたので、縦割れの目を見てはいないはず。
だが、リューガに代わってからのジュリエットの反応の差は歴然だった。
感触の差だろうか。気配か。
「ヒューガずっと苦しそうにしてたじゃん!」
「今さらかよ!」
リステルとジェフリーにツッコミを受けるも、ジュリエットは怪訝そうな顔でリューガの顔を覗き込もうとして、リューガは気まずくなって目を逸らす。
「……誰?」
「今まで抱きついてた男に誰って何だよ」
ヒューガならそう言うだろう、とエミュレートして返すも、ジュリエットは首を傾げる。
「誰ってどういうことだよ。ヒューガだろが」
「まさか偽ヒューガとか?」
「んー……別人……じゃないんだけどヒュー兄でもない感じっていうか……」
面白がってジェフリーとリステルも覗き込もうとしてくるので、リューガは結局何もできずに逃げ出す。
(ままならんな!)
(……何しようとしてんだよ……)
ヒューガは心の奥側から疲れた声を漏らす。
駄々漏れなのに強引に止めようとしなかったのは、ジュリエットに対する申し訳なさなのか、リューガの即物的思考こそ正しいのかもしれない、と思ってしまったせいか。
自分でも判断がつかなかった。