「うーん」と唸りながら御澄宮司は、客間の中を見まわす。
「ただ……今のところは、おかしな気配は感じないんですよね。夜になると、何者かの気配を感じる、といったところでしょうか?」
「そうです。昼間にそういった恐ろしい目に遭ったことはありません」
「では、夜はずっと何かの気配を感じるのですか? 時間帯などを教えていただけないでしょうか」
「時間帯……。早い時で、夕食を食べている時間。十九時くらいでしょうか。朝、新聞が届く頃には、もう何も感じませんね。あっ、そういえば……」
「何です?」
「ずっと、と言われて気がついたのですが……。娘が家にいない時は、恐ろしい思いはしていないような気がします……。久子は、どうだ?」
山里が妻の方へ顔を向ける。
「そうね。たしかに、美奈が家にいる時だけだわ。それに、私は雨の日の夜が怖かったんだけど、よく考えたら雨の日は、美奈が家にいるのよね……」
二人とも、困惑した表情を浮かべながら、顔を見合わせている。
「そうですか。それなら——家に何かが憑いているのではなくて、娘さんに憑いている可能性が高いですね。娘さんは、二階ですか?」
「は、はい……。自分の部屋で、眠っています」
「少し様子を見させてください」
「分かりました」
山里の後をついて行き、端にある部屋へ入ると、ベッドで女性が眠っていた。僕たちが横に立っても、起きる気配はない。熟睡しているようだ。
昼間は全く外へ出ていないのか、顔や首は蒼白く、唇も血の気がないような色。目の周りは窪み、頬は骨の形が分かるほど肉が落ちている。
「あまり良くない状態ですねぇ……」
御澄宮司が呟いた。そして美奈の顔に、右手の平を近付ける。
「……何となく気配は感じますが、ここに何かがいるわけではないような気がします。昼間は妙な気配は感じないと言われていましたし、夜になると、何かと繋がってしまうのかも知れないですね。一ノ瀬さんも、お願いします」
「えっ、僕も?」
「はい。さぁ、どうぞ」
「えぇ……。あのう。すみません、山里さん。娘さんの手を、布団の上に出してもらってもよろしいでしょうか……」
「分かりました」
僕は御澄宮司のように、手をかざすだけで気配を読む、なんて芸当はできないが、触れると弱い霊気でも感じることができる。
「これでいいでしょうか?」
「はい、ありがとうございます」
山里が美奈の腕を布団から出してくれたので、手首のあたりに、そっと触れた。
御澄宮司が言う通り、何となく霊気は感じるけれど、それだけだ。
「うーん……。やっぱり、正体までは分からないですね」
「断片的にでも、視えそうにないですか?」
「今は、何も……」
その時。寝ているはずの美奈が、僕を見た気がした——。
「えっ」
勢いよく美奈の顔へ目をやったが、やはり寝ている。
「一ノ瀬さん? どうかしましたか?」
「い、いいえ……。この女性が、僕を見たような気がしたんですけど……」
御澄宮司が美奈の顔を覗き込む。
「目を開けたような感じは、しませんでしたけどね……。もしかすると美奈さんではなく、彼女を操っている『何か』が一ノ瀬さんを見たのかも知れませんね」
「でも、こんなに気配が弱いのに……」
「視線を感じたということですよね?」
「視線……。いえ、目がこちらを向いたというか……あれっ、僕は手を見ていたんだから、目が見えるわけがないか」
僕は眠っている美奈の顔へ目をやった。たしかに彼女は呼吸をしているかどうか確かめたくなるほど、深く眠っているように見える。僕たちが話をしていても起きないのだから、目を開けたとは考えづらい。
——見られたような気がしたんだけどな……?
そう思いながら、じっと顔を見つめていても、美奈は微動だにしない。
——やっぱり、気のせい……。
ぬるり、と美奈に触れている右手に、何かが絡みついた。
「うわっ!」
驚いて立ち上がる。
しかし、手には何もついていない。
「何かありましたか?」
「いや……今何かが、手に絡みついて来た気がしたんです。でも、何も視えなくて」
呪具の数珠をつけている左手で、右手を強く擦った。何もついていないはずなのに、粘り気のある生暖かいものが、手に絡みついているような気がする。
——数珠が光ってるってことは……。
数珠が淡い紫色の光を放っているので、やはり気のせいではないのだろう。
「うぅっ、気持ちわる……!」
手首をぎゅっと握りしめた時。親指の爪が歪んで視えた——。
ゆらり、と靄のようなものが浮かび上がる。黒と見間違えるような暗緑色だ。
「なっ!」
僕の声が漏れたのと同時に、御澄宮司が僕の右手を掴んだ。そして、自分の顔に近付ける。
「これか……。暗緑色の霊気はたまに視ますが、随分と色が濃いですね」
彼は暗緑色の靄を睨みつけた。
「な、何なんですか、これ……! 僕の、腕の中に」
「大丈夫。呪具に止められて、一ノ瀬さんに中に入れなかったんですよ。まぁ、この程度では、一ノ瀬さんが操られることはありませんけどね」
「本当に、大丈夫なんですか? 腕が気持ち悪いんですけど……!」
「その気持ち悪さは、一ノ瀬さんの身体が、この霊気を拒絶している証です。抵抗できない人間だと、気持ち悪さは感じないんですよ。あっという間に身体の奥に入られて、操られてしまいます」
御澄宮司が話している間も、生暖かいものが腕の内側を這いまわっているような感じがする。
「ううぅ……! 御澄宮司、何とかしてください! もう無理です!」
「仕方ないですねぇ」
小さくため息をつきながら、御澄宮司が、僕の左腕についている数珠に触れる。
今までは淡い紫色だった光が一気に強くなり、眩しくて、思わず目を瞑った。
「はい。これでもう、何も感じないでしょう?」
そう言われて目を開くと、たしかに腕の気持ち悪さはなくなっていた。数珠の光も消えている。
「もう、祓ったってことですか?」
「えぇ。この程度なら、呪具に力を込めると祓えますよ。次はやってみてくださいね?」
「そんなことを言われても……」
先ほどの数珠の光を見ても分かる。僕と御澄宮司では、霊力の強さが全く違うのだ。僕だと淡くしか光らないが、御澄宮司だと眩しいくらいの光を放つ。
——でもこれ以上言うと、また力の使い方を学びに来いって言われるしな……。
言いたいことを、ぐっと飲み込んだ。
「一ノ瀬さん。目が視えたと言っていましたが、それは美奈さんの目でしたか?」
「え?」
「美奈さんはずっと目を閉じている状態なので、私たちは美奈さんがどんな目をしているのか、想像することしかできませんが、一ノ瀬さんが視た目がどんな目だったか、思い出してみてください。美奈さんの目ではない可能性があります」
「は、はい。分かりました……」
瞼を閉じて、先ほど視た目を脳裏に浮かべる。
丸みがなく、どちらかというと鋭い目。黒い瞳の下には白目がある。それだけで男女の差があるとは言えないけれど——。
「本当に目しか視えなかったので、違うかも知れないですけど……男?」
「男、ですか……。先ほどの霊気では、判断ができなかったんですよね。呪いのような、不気味な気配は感じましたけど。でも、一ノ瀬さんが目を視たというのなら、人間ということですかね……?」
御澄宮司は美奈の方へ目を向けた。彼は眉間に皺を寄せているので、考え事をしているのだろう。
「山里さん。まだはっきりとしないのですが、とりあえず、家の中も見せていただけますか? それから、何かの気配を感じたことがある場所も、教えてください」
「はい。では、二階から——」
山里夫妻、御澄宮司の後に部屋を出てから、ドアを閉めた。