——あんな色の靄は、初めて視たな。ダムの深い場所みたいな、暗い色……。
生きている人間に悪意を持った霊は、たまに見かけることがあるけれど、あんな色はしていない。なんだか嫌な予感がする。
霊気を気にしながら、美奈の部屋に背を向けた瞬間。
全身の肌が、ぞわりと粟立った。
後ろに、誰かが立っている——。
勢いよく振り向いた。けれど、僕のすぐ後ろには、ドアがある。人間が立てるようなスペースはない。
——でも今、真後ろに誰かがいた。絶対に、いた……!
身体が震える。ただ後ろにいただけでなく、悪意も感じたのだ。振り向かなければ、危害を加えられる。そんな風に感じた。
「はっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」
呼吸をするのが苦しい。
「一ノ瀬さん?」
御澄宮司の声が聞こえて身体が、びくりと跳ねた。
「……御澄、宮司……」
「はい」
「う、動け、ません……」
ドアから目を離すのが怖い。また何かが近寄ってきそうな気がする。
「ん? この気配は、美奈さんの中から感じた気配ですね」
気配に気付いた御澄宮司は、そっとドアを開けて、美奈の部屋の中を覗く。
「いないですね。一瞬だけ美奈さんの中から出てきたのか……。一ノ瀬さんは、何かを視たんですか?」
「そうじゃ、ないです……。突然、後ろに誰かがっ、立って。すごく、い、嫌な気配でした」
「その反応だと、悪意があるものが近くにいた、ということですね?」
「は、はい。真後ろに」
「先ほど視えたという、目の持ち主ですかね。男で、一ノ瀬さんに悪意を持った……」
うーん、と唸りながら、御澄宮司が僕の後ろへまわり込む。そして、背中を強く三回、叩かれた。
「どうですか? 少しは、楽になりましたか?」
「は、い……。震えが、止まりました」
呼吸をするのも楽になったので、深呼吸をした。
——やっぱり御澄宮司はすごいなぁ。あんなに身体が震えていたのに、一瞬で止まった。
「一ノ瀬さんの腕に憑いていた霊気は、祓ったのですが、相手に覚えられてしまったんですかね。男だと言っていましたが、人間の死霊とはまた違う、なんだか妙な気配なので、しばらくは気をつけてくださいね?」
「気をつけるって言っても……」
「まぁ、この連休中には解決するつもりなんです。あまり長引かせると、美奈さんがもちませんからね」
「はい……」
いつもなら、霊力の高い御澄宮司のそばにいる時は、あまり恐怖は感じないのに、二階を見てまわる間も落ち着かない。
天井から。ドアの向こうから。背後から。足元から。物陰から。ふとした瞬間に、殺気のようなものを感じる。
——何かに見られているような気がする……。
僕が怯えて周囲を見まわす度に、御澄宮司に見られているのは分かったが、それを気にしている余裕はなかった。御澄宮司は、この嫌な気配が気にならないのだろうか。
次は一階を見まわるようだ。山里夫妻と御澄宮司の後について行くと、玄関の前で足が止まった。
「御澄宮司……。入ってきた時は気付かなかったんですけど、家の中で一番霊気が濃い場所は、玄関のような気がします……」
靄が視えるわけではないが、下の方から嫌な気配を感じる。
「どの辺りから霊気を感じますか?」
「下の方です。ちょうど、あの辺……?」
嫌な気配を辿って指差した場所には、汚れた白いスニーカーがある。小さいので、女性のものだろう。
「山里さん。あの白いスニーカーは、美奈さんのものですか?」
御澄宮司が呼ぶと、山里が土間を覗き込んで、頷いた。
「えぇ、美奈の靴です」
「やはりそうですか。夜中に出て行った時に、霊気が纏わりついたのでしょう。家の色々な場所で微かに感じる霊気は、美奈さんが歩きまわった時についたもので、やはり、家に何かがあるわけではないんだと思います」
「これで『微かに』なんですか? たしかに僕も、最初は何も感じませんでしたけど、今は……」
「あぁ。一ノ瀬さんは、腕に霊気が入り込んだので、敏感になっているのでしょう。嫌でしょうけど、そのまま霊気が残っている場所を、探っていただけると助かります」
「うぅ……」
もう手伝うしかないと分かっていても、身体が拒絶する。
最初に通された客間は何も感じなかったので、台所や居間、トイレを見まわり、最後に風呂場へ向かう。
「あ……御澄宮司。ここも、嫌な感じがします」
「そうですね、微かに霊気を感じます。靴と同じように、着ていた服も霊気を纏っていて、風呂に入った時に、この場所にも霊気が残った。ということでしょうか」
「僕はちょっと、よく分からないんですけど……。普通は取り憑かれていたら、その人の中にだけ霊気を感じますよね? でも今回は美奈さんの奥に、ほんの少しだけ霊気が入り込んでいて、服や靴にも霊気が纏わりついている……。なんだか、汚れた場所にいたような感じですよね。悪い霊気で穢れた空間にいたから、そんな状態になっているってことですか?」
「そうです。霊気を、煙などに変換して考えると、分かりやすいですよね。煙が充満している場所だと、呼吸をすれば肺に煙が入りますし、服や靴も煙を纏ってにおいがついてしまう。美奈さんは、悪い霊気が溜まっているような場所に行っているんでしょうね」
「どこなんでしょうか。普通に生活をしていて、そんな場所を視ることはないんですけど……」
「うーん……。この辺りにあれば、分家の者たちも気付くはずなんですけどね。分家は、一般家庭の除霊や地鎮祭などもやっているので、この辺りにもよく来るんですよ」
「美奈さんが消えるのは、近くにある古寺って、言っていましたよね?」
美奈がこんなにも弱ってしまうような、穢れが酷い場所があるのなら、分家の人たちはどうして気付かなかったのだろうか。
彼らは僕よりも霊力が強くて、訓練を受けている人たちなのに——。
ぴちゃん ぴちゃっ……
水滴が落ちるような音が響き渡った。
「ん?」
音は、風呂場の中から聞こえている。
「何ですか?」
「なんか、水滴が落ちる音が気になって。やけに、響くような音だから」
「……一ノ瀬さん。水滴が落ちる音なんて——
「えっ」
ぴちゃっ ぴちゃん ぴちゃ……
音は続いている。
「この音……聞こえないんですか?」
「えぇ、全く」
御澄宮司がそう言うので、美奈の両親へ目をやると、彼らも驚いているような表情で、首を横に振った。
「僕だけ? じゃあ、この音って……」
「どこから聞こえますか?」
「風呂場の中です。入って——左側、かな」
僕が言い終わるのと同時に、御澄宮司が勢いよく風呂場に入った。そして腰を下ろす。
「御澄宮司。どうですか?」
「一瞬だけ、隅の方に濁った霊気が視えましたけど、逃げられましたね。ここでも私は、嫌われているようです……」
「御澄宮司は霊力が強いから、向こうが驚いて、逃げるんですかね? でも、なんで僕だけ音が聞こえたのか。僕の中にも、さっきの霊気が残っているんでしょうか」
右手を見たが、今は何も感じない。
「残っているだけなら良いのですが、干渉してきているような気がしますね。先ほども言いましたが、気を付けてください。操ろうとしたり、美奈さんを奪われないように、一ノ瀬さんを攻撃することもあるかも知れませんから」
「うっ。気を付けます……」
——生きている人間も怖いけど、人ならざるものは、物騒なのが多い気がするなぁ。
御澄宮司に出会ってからは特に、恐ろしいものにばかり出会している気がする。
「家の中は全部見せてもらいましたが、やはり家の中に原因があるわけではありません。また夜になってから、出直して来ましょう」
家の外に出ると、山里夫妻は何度も御澄宮司に頭を下げた。弱って行く娘をどうにか救いたい、という気持ちが伝わって来る。
——怖がってる場合じゃないんだよな。美奈さんには、もう時間がないんだから……。
二階を見上げると、美奈の部屋から視線を感じた。視えない何かに、睨み付けられているようだ。
御澄宮司も何かの視線に気付いたようで、顔を上に向けた。
「一ノ瀬さん、あまり視ない方がいい。行きましょう」
「はい……」
僕は左腕の数珠を、ぎゅっと握りしめてから、山里家を後にした——。