コンビニで軽食を購入して、山里家に着いた頃には、辺りは真っ暗になっていた。
「美奈さんはまだ家の中にいますね。こんなに離れているのに、僕でもあの嫌な気配が分かるのが怖いですよ」
少し距離があるのに、恐ろしいものに威圧されているような空気を感じて、注視すると目眩がする。昨日と同じだ。
「随分と気配が強いので、今日は早く出てくるのかも知れませんね」
御澄宮司がそう言うので、車に装着されているアナログ時計に目をやった。今は八時過ぎだ。
「昨日は九時でしたよね」
「えぇ。でも今日は気配が強くなるのが早いですから、出かけるのも早くなる気がします。昨日は尾行しているのがバレてしまったので、美奈さんを早く、自分のところへ呼ぼうとしているのかも知れませんね」
「男二人が尾行していたから、嫉妬してるのかな……」
僕が呟くと御澄宮司が、ははっ、と笑った。
「嫌ですねぇ、嫉妬深い男は。今日も気を付けてくださいね。美奈さんに憑いている男性は、一ノ瀬さんを敵視しているんですから」
「恋人を奪おうとしている悪い男ですからね、僕は……」
そんなつもりはないのだけれど。
その時。山里家の玄関に人影が見えた。
「あっ! 御澄宮司、美奈さんが出てきましたよ」
僕が言うのと同時に、御澄宮司の携帯電話が鳴った。
「——はい。分かりました、ありがとうございます」
おそらく、美奈が家を出たという連絡だろう。美奈は、ぎょろぎょろと動く、無数の目がついた黒い靄を纏って、ふらふらと歩いている。
携帯電話をポケットに入れる御澄宮司を見ていると、視線がぶつかった。
「一ノ瀬さんは、もう行けますか?」
「はい、大丈夫です」
「では、行きましょう」
僕たちは車から降りて、美奈の後を追った——。
昨日と同じように、美奈は身体を左右に揺らしながら、ゆっくりと歩いて行く。
——美奈さんのことが大事なら、歩かせるなよ。いつ倒れてもおかしくない状態なのに……。
この世のものではなくなってしまうと、相手の気持ちを考えられなくなってしまうのだろうか。僕が視た人ならざるものたちは、自分の望みを叶えることしか考えていないものが、多かった気がする。
今にも倒れそうな美奈は、歩くのがかなり遅い。僕たちも、美奈に纏わりつく霊気の主に見つからないように、距離を開けてゆっくりと歩く。
しばらくすると、古寺の下にある暗がりに辿り着いた。そして美奈が、ふらり、ふらり、と歩きながら暗がりの中に消えて行く。
「一ノ瀬さん。少し早いですが、この辺りから美奈さんの気配を、しっかりと感じ取っておいてください。今度こそ、見失わないようにしましょう」
「はい、頑張ります」
暗がりの中へ入って行くと、薄い幕のようなものを通り抜けた。生暖かい湿った空気が身体に纏わりつき、息苦しくなって行く。別の世界に入り込んでしまったように感じた。
——気持ち悪い……。これは何回経験しても、慣れないだろうな。
普通に生活をしていたら、経験することはない感覚だ。
暗い山の中は木や草が生い茂っていて、男の僕でも歩きづらいのに、美奈は何にもぶつからずに進んで行く。美奈は立っているのもやっと、という感じなので、美奈を呼んでいるものが、彼女の身体が傷付かないように守っているのだろう。
——僕はもう何度も、枝に服を引っ掛けているのにな……。
少し前に、枝が当たったせいで、右の頬がヒリヒリしている。
今夜の夜空は暗い。美奈が纏っている、禍々しい霊気のおかげでなんとかついて行けているが、彼女の姿自体はほとんど視えないので、見失わないように必死だ。
「そろそろ池があると思うのですが……」
御澄宮司に言われて目を凝らすと、少し先に、白い霧が立ち込めているのが視えた。おそらく昨日、美奈を見失った場所だ。
「ありましたね」
「えぇ、ここからです。一ノ瀬さんは、走れそうですか?」
「え? はい。大丈夫ですけど……」
「また霧がこちらへ来ることがあれば——いや、来るでしょうから、少し走ります。美奈さんと距離が近くなってしまいますが、見失うよりはマシです」
「分かりました」
池の上に発生している霧は、今は動いていない。
——昨日は、風が吹いたような感じがして、霧がこっちへ流れてきたんだよな。
美奈と霧の両方を気にしながら、ゆっくりと進む。池が段々と近くなり、周りに木々がなくなった瞬間。
池の方から、ふわり、と風を感じた——。
「一ノ瀬さん、走りますよ!」
「はいっ!」
僕と御澄宮司は白い霧に包まれる前に、美奈の方へ向かって走った。
池の上にあった霧が、僕たちのすぐそばまで迫っている。やはりただの霧と風ではない。池を通り過ぎても、霧は追って来た。
——美奈さんはまだ視えてる、大丈夫だ。
僕の右手にある数珠や、御澄宮司の札を使えたら、霧を祓うことができるのかも知れないが、それをやると、美奈に憑いているものは警戒して、出て来なくなるかも知れない。そうなると長期戦になってしまうので、御澄宮司もなるべくやりたくないと言っていた。
それは面倒だということではなくて、長期戦になると、美奈の身体が保たないのだ。
ようやく霧を振り切って前を向くと、美奈が右へ逸れて行くところだった。
「美奈さん、曲がりましたね。だから昨日は、いなくなったように感じたのかな……」
「それもあると思いますが、一気に気配が薄くなったような気がしませんか?」
そう言われて、ふと気が付いた。
「あっ。たしかに……」
「あの辺りに何かがあるのかも知れません。行ってみましょう」
御澄宮司と一緒に、美奈さんの後を追う。彼女が曲がった辺りで同じように曲がると、長い下り坂になっていた。細い獣道で、歩きづらい。
美奈は、ゆっくり、ゆっくり、と獣道を下りて行き、下まで行くと、また元の速さで歩いて行く。速くなったとは言っても、充分遅いのだけれど。そして、大きな岩の横を通った時。
また、薄い膜のようなものを通り抜けた——。