「あっ。ここからまた、空気が変わるんですね」
「そのようですね。先ほどよりも、空気が重くなったような気がします。それに、禍々しい気配も強くなりましたね。何重にも目眩しのようなものがあるから、余計に分かりづらかったのでしょう。嫉妬深い上に霧や、こんなトラップまで用意しているなんて……。生前もきっと嫌な奴だったんでしょうね。私は気が合いそうにありません」
御澄宮司は大きなため息をついた。暗くて見えないが、眉間には皺が寄っているに違いない。
「どんな人だったのかは分かりませんけど、頭は良かったんでしょうね。この世のものではなくなると、思考が止まってしまうのかなと思っていましたけど、美奈さんについている男は、とても思慮深い人物のようですから」
「一ノ瀬さんがあの男を褒めるなんて、意外ですね」
「そうですか? 神様や、物の怪の類ならともかく、人間の霊が御澄宮司を困らせるなんて、すごいことだと思いますけど」
「今回は少し特殊なように感じますが……まぁ困っているのは、たしかですね」
再び緩やかな下りの獣道が続いている。道の先を見て、どのくらい続いているのか不安になった。道の先は暗闇に包まれている。かなり不気味なので、美奈が正気だったら絶対に、こんな場所に足を踏み入れることはないだろう。
丈の長い草が生い茂った獣道を下って行くと、大木が一気に増えた。美奈の姿が木々に隠れてしまうので、確認しづらい。
辺りは静まり返り、静かすぎて、ピィーというモスキート音のようなものが聞こえる。耳が痛い。
——寒くなってきたな……。もっと着込んで来れば良かった。
先ほどよりも、確実に気温が下がっている。足先の方から、冷えて行くのを感じた。もしかすると、この辺りは昼間でも、太陽の光が届いていないのかも知れない。冷たく湿った空気が漂っている。
「止まって!」
突然、御澄宮司が僕の前に腕を出した。
「わっ。どうしたんですか?」
訊いたが、彼は黙ったままで、前を歩く美奈の方を見つめている。
——なんで、何も言ってくれないんだろう……。
御澄宮司から美奈の方へ視線を移すと、なぜか、景色が歪んで視えた。
「なんか、おかしいですね……?」
おそらく彼は、いち早く異変を感じて僕を止めたのだろう。
御澄宮司が、前に手を伸ばした。
「……ここに、三つ目の空間のようなものがあります」
そう言って、ゆっくりと左右に腕を動かす。
今までは、視えない幕のようなものを通り抜ける度に、空気が重くなり、美奈についている禍々しい黒い靄の気配も、強くなって行った。
三つ目を通ったら、どうなるのだろうか。
「うーん……。これは、入りたくないですねぇ……」
唸るような声で、御澄宮司は言う。
「嫌な感じがしますか?」
「嫌な感じというよりも……腕を入れただけで、気持ち悪いんですよ。今なら、紅凛さんが『ネバネバする霊気』と例えたのも、分かるような気がします。何かが手に纏わりついて、離れない感じがありますから……」
話をしているうちに、美奈はどんどん離れて行く。
「美奈さん、行っちゃいますね……。どうしますか?」
「うーん……。とりあえず行ってみて、ダメだと判断したら、すぐに出ましょうか。無理はしないように」
「分かりました」
僕たちは、おそるおそる薄い幕を通り抜けた。
御澄宮司が言う通り、粘り気のあるものが、全身に纏わりついているように感じる。それに肌の表面に、ビリビリと電気の刺激を受けているような痛みもある。よくないものに悪意を向けられている時の感覚と同じだ。
そして歩きながら辺りを見まわすと、地面の至る所が、暗緑色にぼんやりと光っていた。
——なんだろう、あれ……。
発光する苔があったような気もするが、薄い幕を通り抜けるまでは、この辺りは真っ暗だったはずだ。気味が悪い、そう思った時。
視界の端で、何かが動いた——。
驚いて、そちらへ顔を向ける。
「っ……!」
木の陰から、誰かが覗いている。
大人だと思うが、暗くて性別は判断できない。ただ、白い目がこちらを見ているのは分かる。
思わず足を止めると、御澄宮司も立ち止まった。
彼は、チッ、と舌打ちをして、上着のポケットへ手を入れる。その理由は、すぐに分かった。
御澄宮司の斜め前、美奈の周り、大きな岩の横、僕の横にある大木、斜面にも、人影がある。
「うぅっ。御澄、宮司……。あれって……」
後退りをしようとして、気が付いた。
僕たちの後ろにも、何かがいる——。
しかし、怖くて振り向くことができない。この気配は、生きている人間ではなくて、人ならざるものの気配だ。目を合わせるのが怖いくらい、強い霊気を感じた。
全身が総毛立ち、身体は勝手に震えている。恐ろしくて声も出せない。
一呼吸するだけのわずかな時間が、とてつもなく長い時間に感じた。そして冷たい空気が漂う中。
ふわり、と左頬に風を感じて、そちらへ顔を向けた。
「ひっ……!」
目が合った。
目の前に、何者かの顔がある。
「うっ、うわあああああああ!」
叫んだのと同時に、御澄宮司が僕の腕を掴んで走り出した。
早く走りたいのに脚がもつれる。何度も人影にぶつかったはずなのに、当たった感触はなかった。やはり僕たちを取り囲んでいたのは、生きている人間ではない。