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第58話

 腕を引っ張られながら走っているうちに、スッ、と空気が軽くなった。霊気が濃い空間から、出ることができたのだろう。


 緩やかな坂を登り切ったところで立ち止まった。


 はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ


 しん、と静まり返った山の中に、二人分の荒い呼吸音だけが響いている。


「山の中で、坂道を走って登るのは……さすがに、つらいですね。はぁっ、はぁっ、はぁっ。一ノ瀬さん、大丈夫ですか?」


「はぁっ……はぁっ……」


 大丈夫、とは言えなかった。走った息苦しさだけでなく、まだ恐怖で身体が震えている。


「ごめん、なさ……。僕は、もう……ムリです。あの場所には、戻りたく、な……」


 先ほどの、目しか視えない人影を思い出すと、身体が激しく震え出す。強い霊気を放っていたアレは、一体何なのだろうか。


 御澄宮司は大きく深呼吸を繰り返した後、ふぅっ、と息を吐いた。


「気が合いますね。私も、そう思っていたところです。……何でしょうね、あの人影は。霊気に満たされた土地のせいなのか、美奈さんに憑いているものが作り出したのか。どちらなのかは分からないですが、怨念の塊のような、嫌な気配でしたね」


「怨、念……?」


「えぇ。人間のような形をしていましたけど、少なくとも一人の人間の死霊ではありません。あれほど強力で禍々しい霊気は、私でもあまり視たことがないですから……。もう少し尾行したかったですけど、手持ちの札だけではどうにもならないので、逃げるしかありませんでしたよ」


 はははっ、と御澄宮司は笑う。


 札だけでは祓えないから逃げただけで、僕が足手纏いになったわけではないのだろうか。


 ——それなら、良いんだけど……。


「尾行の邪魔になると思って、持って来なかったのですが、刀も持って来るべきでした」


 彼はそう言いながら、坂道がある方へ身体を向ける。


「それにしても美奈さんは、随分と遠くまで行っているんですね。この場所も古寺の裏山ではなく、もうひとつ奥の山だと思うんですよ。でもあの調子だと、もっと奥の方まで行きそうですよね」


「そう、ですね……。止まるような素振りはありませんでしたし、あの人影より強そうな気配は感じなかったので、霊気の元は、僕が気配を全く感じ取れないような、奥の方にあるんだと思います……」


 美奈に憑いている霊気も、かなり禍々しい気配を感じるので、本体はもっと強い霊気を放っているはずだ。美奈は時間をかけて、その霊気の本体がある場所に通っているのだろう。


「今日はここまでにして、帰りましょうか。随分と遠くまで来たので、帰るのも時間がかかりそうです。一ノ瀬さんは、もう少し休憩したいですか?」


「いいえ。早く、帰りたいです……」


 身体の震えを落ち着かせるために、僕も深呼吸をした。


 ——  一刻も早くここから離れたい。頑張って歩こう。


「では、行きましょう。つらくなったら肩を貸しますから、遠慮せずに言ってくださいね」


 そう言って御澄宮司は歩き出す。ゆっくりと歩いているのは、僕に合わせてくれているのだろう。


 パン、パン、と両膝を強く叩いた後、僕も御澄宮司の後をついて行った——。




 分家の神社に辿り着いた僕は、中へ入った途端に倒れ込んだ。


「お疲れのようですね。身体が、というよりも、霊気に当てられて疲れたのかも知れませんね」


「うーん、両方ですかね……。あの禍々しい霊気がきつかったのは、たしかですけど、普段は山の中を歩くことなんて、ないじゃないですか。御澄宮司は平気なんですか?」


「私も、一応身体は鍛えていますけど、脚がパンパンですよ。寝て起きた時に、痛くなっていなければいいんですけどね」


「良かった、僕だけじゃなくて。……何だか美奈さんがあんなにやつれてしまっているのも、分かりますよね。あの距離でもこんなに疲れるのに、美奈さんはもっと山の奥まで歩いて行っているんですから。それに、霊力がないのに、強い霊気に晒されて……。美奈さんに憑いているあの男が守っていなかったら、たぶん、美奈さんは……」


「そうでしょうねぇ。普通は生きていられないでしょうね。先ほどの黒い人影を視て、改めてそう思いましたよ」


 霊力がある僕たちは、ある程度の霊気には耐えられる。それでもあの黒い人影の禍々しい霊力は、心身ともに影響を及ぼすほど危険なものだったのだ。


「今日はもう風呂には入らずに、そのままで寝ますか?」


「いいえ。服がびしょびしょになるくらい冷や汗をかいたので、入りたいです……」


「では、頑張って入ってください」


 御澄宮司は、ふふっ、と笑って奥へ歩いて行った。

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