「ん? そうなると、この嫌な感じがする霧は、何なんですかね? もしかしたら、美奈さんに憑いている男とは、関係ないかも知れないってことですか?」
「似たような気配ですが、全く同じというわけではないですからね。一ノ瀬さんが夢の中で視たという洞窟は、もっと奥ですし、全く関係のないものが、生きている私たちを惑わせようとした。という可能性もありますよね」
「でも、美奈さんが通った後に、霧が流れてきましたよね? 美奈さんだって生きているのに——」
「彼女には、嫉妬深い男の霊気が纏わりついていますから、この世のものではない、と判断されたのではないでしょうか」
「あぁ。うーん……。納得しても良いのかなぁ、それ……」
美奈は強い霊気に長期間、纏わりつかれているせいで、随分とやつれてしまっている。御澄宮司も、このままでは美奈の身体が保たないと言っていたので『この世のものではないと判断された』という言葉に対して『そうですね』とは返しづらい。
「さて。この池には何のヒントもなさそうなので、進みましょうか。まだ、総合公園の方にも行く予定ですし」
「はい」
僕は池を眺めながら、御澄宮司の後ろを歩いた。
霧はやはり、僕たちを追うように、先ほどまでとは流れを変えている。普通のものとは違う、この意思を持った霧は、一体何がしたいのだろうか。
そして、僕たちが池から完全に離れると霧も、すぅっと池の方へ戻って行った。
——追って来ない……。やっぱり、霧と美奈さんに纏わりついている霊気は、関係ないものなのかもな。
昨夜と同じように、池から少し進んだところで右へ曲がる。下り坂になっている細い獣道なので、気を付けないと、足を滑らせてしまいそうだ。
しかし今日は、ゆっくりと下りている時間はない。たまに滑ったりしながら、一番下まで下りて歩いていると、見覚えのある大きな岩があった。
——ここにまた、膜みたいなのがあるんだよな。
そこを超えると、さらに空気が重くなるはずだ。少し緊張しながら、大きな岩の横を通った時。
やはり、薄い膜のようなものを通り抜けた——。
「うぅっ。御澄宮司……。ここは昼間でも、かなり嫌な感じがしますね……」
「そうですね。ここは太陽の光がほとんど入って来ていませんし、風も吹かない。暗くて空気が澱んだままになるので、夜と大して変わらないんでしょうね」
重いものに押し潰されているような圧迫感がある。息苦しい。
「それでも夜に来た時よりは、マシだと思いますよ?」
「多少は。でしょう? 確かに昨夜は、もっと霊障が酷かったような気はしますけど、今だって、かなり嫌な霊気を感じてますよ。まだ真っ暗じゃないだけ良いですけど……」
思わず周囲を見まわした。今のところは、妙なものは視えない。
再び緩やかな下りになっている獣道を下りると、昼間なのに随分と暗くなった。窓の少ない廃墟の中に入ったとしても、ここよりは明るいだろう。
丈の長い草が生い茂り、一気に大木が多くなったことで、周囲の確認をしづらくなった。そしてこの辺りには、また視えない幕のようなものがあり、さらに霊気が濃くなる空間がある。
——やだなぁ……。
深呼吸をしてから、暗い空間に足を踏み入れた。
「ううう……」勝手に声が漏れてしまう。
ねっとりとした粘り気のあるものが、全身に纏わりついて来るように感じる空気だ。電気の刺激を受けているように、肌の表面がビリビリと痛む。これは、よくないものに悪意を向けられている時の感覚だ。
——昼間なのに、かなりキツイ……!
何かに睨まれているような気配を感じる。呼吸をするのが苦しくなり、全身に力が入った。
——もしかして、昨夜と同じ奴がいるのか?
ちらり、と木の陰に目をやった時。
ぼんやりとした黒い人影が、ふわりと動いた。
「ひっ、御澄宮司!」
「アレの目を視ないで! 走りますよ!」
ぐいっ、と腕を引っ張られて、走り出した。
周りを視ないようにしていても、黒い人影が動く度に、目が勝手に追ってしまう。
走る僕たちを先回りするかのように、木や岩の陰、丈の長い草の間から黒い人影が顔を出し、黒い影についている目が、こちらをじっと見つめてくる。
「うわっ!」
突然、黒い人影が目の前に現れた。
しかし、止まれない——。
黒い人影と目が合った後に、正面からぶつかった。
暗い山の中。
はぁっ、はぁっ、はぁっ、
荒い息遣いだけが聞こえる。
走っているのか、森の中の景色が高速で流れて行った。
『誰か! 誰か、助けて!』
苦しげな女性の声が、頭の中に響く。
『あっ!』
急に立ち止まったようだ。
視界が下へ向くと、随分と高い場所にいるのが分かった。
ぐるりと視界が横へ移動する。
真っ暗な山の中が見えた。
『嫌だ、死にたくない……!』
今度は、怯えるような男性の声が、頭の中に響いた。
はぁっ、はぁっ、はぁっ……
周囲を見まわし、下を見る。
『うぅう……』
男性の泣き声が聞こえて、真っ暗になった——。
「一ノ瀬さん! 止まらないで、走って!」
「わっ」
強く腕を引っ張られた。
はぁっ、はぁっ、はぁっ、
僕と御澄宮司の、荒い息遣いが聞こえる。昼間でも、足場の悪い山の中を走るのはつらい。
ふと、先ほど視た誰かの記憶と、よく似ている状況だなと思った。
暗い山の中を走っているような光景。
女性と男性の、怯えているような声。
彼らも僕たちと同じように、何かから逃げていたのだろうか。そして、泣きながら崖下を見た後は、どうなったのだろうか——。
しばらくすると、濃い霊気が充満した空間から出ることができた。
「はぁっ、はぁっ、苦しっ!」
御澄宮司が木を背にして座り込んだ。
「も……ムリ! はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
僕も地面に倒れ込んだ。手の平に小枝の先端が刺さって、ちくりと痛んだが、そんなことはどうでも良かった。息を吸っても、肺に入っていない気がする。苦しくて、視界が歪む。
少し落ち着いた頃に、御澄宮司が口を開いた。
「さっきの……何だったんですか? また何かが視えたのかな、と思ったのですが」
「あ、はい。夜の山の中を走っている光景だったんですけど…… 一人の記憶じゃなかったんですよね」
「同じように山の中を走っているけど、別の人物の記憶もあった。ということですか?」
「初めての経験なんですけど、そうなんです。最初は女性の声が聞こえて、次は男性で……。でも、視界は同じような光景で、山の中を走った後に、急な斜面の上に立ち尽くすんですよね。……二人とも、随分と怯えているような声でした。たぶん、何かに追われていたんだと思います」
「急な斜面……? その斜面の上って、もしかして、あれのことですかね?」
御澄宮司が斜め上を指差す。
その方角には木々の隙間があり、崖と言っても良いほどの急な斜面と、山の頂上が見えた。