「上からの景色だったのでよく分かりませんけど、記憶で視た斜面も、結構な高さがありました。あの場所って、霊気が濃い場所の上ですよね?」
「一ノ瀬さんが視たものと合わせて考えると、何かに追われて、あの斜面から落ちた。あるいは飛び降りたかして、亡くなった人たちがいたんでしょうね。一ノ瀬さんは二人分の記憶を視たようですが、霊気の濃さと黒い人影の禍々しさを考えると、大勢が亡くなっているんだと思いますよ。そのせいで、あの異常に霊気が濃い空間が出来上がったのでしょう」
「そういえば御澄宮司は、あの目しか視えない人影は、一人の人間の死霊じゃないって言っていましたね。大勢が亡くなって、良くない霊気が溜まって行って……人間がたくさん死んだから、人間と同じような姿をした、あの黒い人影が生まれたってことでしょうか……」
「そのような気がしますよ、私は」
「あの黒い人影……。怖いけど、何だか悲しいですね。僕は、危害を加えようとして追って来ているんだと思っていたんです。でも本当はそうじゃなくて、助けて欲しかっただけなのかなって……」
「そうかも知れませんが、もう私たちにしてやれることは、何もありません。彼らは大昔に、この世のものではなくなってしまったのですから。それに、怨念の塊のようになってしまった今は、私たちにとっては害でしかありません」
「そう……ですね……」
分かっていても、彼らの最後を視てしまうと、やはり心苦しい気持ちになる。同じ景色を視た彼らは死んでしまったのに、僕は生きている。僕が何かをしたわけではないのだけれど、後ろめたさのようなものを感じてしまう。
立ち上がって振り返ると、暗い空間の中で、暗緑色の靄がゆらめいているのが視えた。
御澄宮司の言う通り、霊気の濃い空間に溜まっているものが怨念なら、あの靄の色は、怨念の色なのだろうか。間違いなく、良くないものだとは思うけれど、でも。
微かに発光しながらゆらめく暗緑色の靄を、僕は、美しいと思ってしまった——。
昨夜は立ち入ることができなかった、山の奥を歩く。
人の声も車の音も聞こえない。しん、と静まっているはずなのに、どうして街中のように、ざわざわとしているような気がするのだろうか。
「どうかしましたか?」
斜め前を歩いている御澄宮司が振り向いた。
「山奥なのに、何だか騒がしいような気がして。気のせいだとは思うんですけど……」
「気のせいではありませんよ。私は別に気になりませんが、霊気が濃いせいで、色々な声や音が聞こえていますから。もちろん、人ならざるものが発しているものですよ?」
「あぁ、そうなんですね……」
僕の気配察知能力は、意外と正確に機能していたようだ。思わず周囲を見まわしたが、人ならざるものの姿はなかった。
「この辺りは、夢に出てきた場所とは違いますか?」
御澄宮司が、少し離れた場所にある岩の方を見ながら言う。
「うーん……。一応、あの大きな岩も探していますし、僕の中に残っている霊気が反応しないかな、と思って気を配っているんですけどね……」
「やはりそう簡単にはいきませんか……。ちなみに夢の中で視た岩は、どんな形をしていたんです?」
「上の部分が尖っていて、三角みたいな形をしているんですよ。僕の身長の三倍くらいある大きな岩で、隣にはその半分くらいの岩もあって。たぶん、見たら分かると思うんですけどね」
「三角の大きな岩……。台形や平たい岩はたくさんありましたけど、三角の大きな岩は見かけませんでしたね」
「でも、あんなにやつれている美奈さんが歩いて行ける範囲って、結構限られますよね。ここでも充分遠いので、よく来られたなと思うんですけど」
「えぇ。私もそう思いますよ。帰りのことも考えると、これ以上奥へは行きたくないんですけどね……」
夜とは違って早く歩けるとは言っても、もう一時間半以上は歩いていると思う。しかも車道のようなまっすぐな道ではないし、木の葉で滑ったり、枝を踏んだりしながら歩くので、足がだるくなってきている。
「美奈さんが、途中から別の獣道の方へ行ったってことはないですかね?」
僕がそう言った時。
「ん……?」御澄宮司が急に立ち止まった。
「何か見つけたんですか?」
彼が見ている方へ顔を向けると、少し先に、また暗く視える空間がある。
「さっきので終わりじゃないんですね。またあるんだ、あの空間……」
正直に言うと行きたくない。強い霊気が充満している場所に何度も入るのは、身体がつらいというのもあるし、何より、あの目だけしか視えない黒い人影に出会すのが怖い。
「あまり気が進みませんが、行くしかありませんね」
ため息をついて、御澄宮司が歩き出した。
——そうだよな。行くしかないよな……。
ここまで来て、美奈さんに憑いている男については、何も分かっていないのだ。
行きたくはないけれど——恐ろしい思いをしてここまで来たのだから、何か一つでも解決に繋がるものを見つけないと。と思い直して、僕も歩き出した。
「何だか少し、違うような……」
暗く視える空間の前で、御澄宮司が足を止めた。
「先ほどよりも、中が暗く視えませんか?」
「たしかに、随分と暗いですね。さっきの場所は、しっかりと地面が確認できていたはずですけど、ここは暗くて視えづらいような……。入っても大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫。とは言えませんけど、入るしかないでしょうね。どうします? とりあえず私が一人で入って、中の様子を確認してきましょうか?」
「えっ」
その方が僕は安全だ。けれど、本当にそれでいいのだろうか——。
「うぅ……。僕も……行き、ます」
絞り出すように言うと御澄宮司が、ふっ、と笑った。
「そうですか。では、札を握ったままで入ってください。何があるか、分かりませんから」
「はい」
呪具の数珠をつけている左手を、ポケットに突っ込んだ。
左のポケットには、御澄宮司から貰った強力な魔除けの札が入っている。僕が怯えているせいで無意識に霊力を使っているのか、今いる空間も霊気が濃いせいなのか、どちらなのかは分からないが、魔除けの札が微かに霊力を放っているのが分かる。
——うん。この札があれば、絶対に大丈夫。大丈夫、大丈夫……。
顔を上げると、御澄宮司と視線がぶつかった。
「できるだけ近くにいてくださいね。離れていると、お互いの姿が確認できなくなりそうなので」
御澄宮司は明るい声で言う。しかもニコニコしている。
——なんか、楽しそう……? 何が楽しいんだよ、こんなに霊気が充満している場所に入るのに。
やっぱり御澄宮司はよく分からない。そんなことを考えながら、視えない薄い膜を通り抜けて、最も霊気が濃い空間に足を踏み入れる。
「うっ」
今までで一番暗く視える空間の中は、入ってすぐに息苦しさを感じた——。