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第66話

 ピィィという、高いモスキート音のような音だけが聞こえる。そのせいか、こめかみの辺りがズキズキと脈打つように痛み始めた。


「これは……長時間いるのは、やめた方が良さそうですね……」


 先ほどとは違う、御澄宮司の低い声が聞こえた。


 やめた方がいい、というよりも、耐えられそうにない。まだ人ならざるものに出会したわけではないのに、全身が総毛立っている。


 ——ここは、ダメだ……!


 素人の僕でも分かる。たった二歩進んだだけで、この状態なのだ。おそらくこの空間も、ある程度の広さがあるだろう。もっと中へ入ったら、どうなってしまうのだろうか。


 ジャリッ


 砂を踏んだような音にハッとして横を向くと、御澄宮司がゆっくりと前に進んでいる。


 ——やっぱり……行くのか。


 一緒に中へ入ると決めたものの、気持ちが揺らぐ。


 霊気が濃すぎて、夜のように暗い。近くにいる御澄宮司も確認しづらいこの状態で進むのは、かなり勇気がいる。


 とはいえ、見失うと大変なことになりそうな予感がしたので、斜め前にいる御澄宮司を見つめながら、ゆっくりと足を進めた。


「こんな時に、どうでもいい話かも知れませんが……」


 御澄宮司が前を向いたままで話し始めた。


「この山に入ってから、小動物も鳥も、見かけていないような気がするんですよね」


「あっ。そういえば、僕も見てないです。だから静かだったのか……」


「今、なんとなく、この空間のせいなのかも知れないな、と思ったんですよ。野生動物や鳥は、人間よりも気配に敏感ですから、ここが近寄ってはいけない恐ろしい場所だということを、知っているんでしょう。賢いですよね」


「僕でも分かりますよ、ここが近寄っちゃいけない場所だって」


「そうですか。それなのに連れて来てしまって、すみません」


 顔は見えないが、ふふっ、と御澄宮司が笑ったのが聞こえた。


 ——全然、悪いと思ってないだろ。


 僕は霊障のせいで体調不良を起こし、恐怖で震えているというのに。笑い事じゃないぞ、と言ってやりたい気分だ。


 ぼんやりと見えている地面には、草はほとんど生えていない。上はよく見えないが、落ち葉がたくさんあるので、木はあるのだろう。それでも、生気のない寂しい場所のように思えた。


 段差がある場所に辿り着いたところで、御澄宮司が立ち止まった。


「一ノ瀬さん、気をつけてください。近くに嫌な気配が——」


「え……?」御澄宮司の声がする方へ、顔を向けた瞬間。

「わっ」


 前に倒れそうになり、思わず地面に手をついた。別に埋まったようには感じなかったが、なぜか脚が動かない。


「あれ? なんか、脚が動かな……」


 ふと、脚を見ると——。




 両脚に、無数の白い腕が巻きついていた。腕は、地面から伸びている。




「うっ! うわあぁあああああ!」


 勢いよく身体を起こした。


 無数の腕はどんどん伸びて、脚に巻きつきながら登って来る。逃げようとしても、力が強くて一歩も動けない。


 白い腕は、地面から湧き出て来るように増えて行く。


 そして腹の辺りまで登って来た白い腕が、手の平を僕の顔へ向けた——。


「ひっ……!」


 公園で視た禍々しい霊気の正体が、脳裏によみがえった。




 暗闇の中から飛び出してきた、無数の腕。

 同じような光景が今、目の前にある。




「一ノ瀬さん!」


 御澄宮司の声がして、札が両脚に貼りついた。


 札は、薄紫色の光を放っている。

 暗い中で光っているので、少し眩しく感じた。


「——もう大丈夫ですよ」


 ポン、と肩に手を置かれて身体が、びくん、と跳ねた。


 いつの間にかすぐ横に、御澄宮司が立っている。


「うっ、腕が……!」


「大丈夫です。もう消えましたから」


「えっ……」


 恐る恐る脚へ目をやると——脚に巻きついていた無数の白い腕は、消えていた。


 黒く見える霊気も、ほんの少しだけ薄くなり、白い札は、ただの紙切れのようになって地面に落ちている。御澄宮司が祓ってくれたようだ。


「しばらくは寄ってこないでしょうから、落ち着いて、呼吸を整えてください」


 そう言われて、何度も深呼吸をしたが、震えていて上手く呼吸ができない。


 御澄宮司は、落ちている札を拾っている。四枚あるので、御澄宮司は自分にも札を使ったのかも知れない。


 しかし、それを訊く余裕はなかった。いくら深呼吸をしても、身体に力を入れてみても、震えが止まらないのだ。心臓の鼓動は大きく早いままで、頭の中にドッドッドッ、と音が響いている。


「一ノ瀬さん。もしかして、昨日公園で視たと言っていた腕は、今のと同じものですか?」


「そう、です……。なんでここに、アレが……」


「なるほど……。まだ、はっきりとはしたことは分かりませんが、公園で一ノ瀬さんが怯えていた理由は、理解できましたよ。あの無数の腕……。見た目も気持ち悪いですが、かなり悍ましい霊気を感じますね。脚に纏わりついて来たものは祓いましたけど、今もまだ不快な感じが残っています」


 たしかに、目をやっても白い腕の姿はないのに、まだ腕が巻き付いているような感覚がある。


 地面から湧き出た無数の腕が、脚に巻きつきながら登ってくる様子が脳裏に浮かんで、何度も頭を左右に振った。


「一ノ瀬さん、動けますか? これ以上、奥へ行くのは危険です。この空間から出ましょう」


「はい……」


 僕は御澄宮司に支えてもらいながら、来た道を戻った——。




 手前にあった、目だけが視える黒い人影がいる空間に入る前に、少し休ませてもらうことになった。


 僕の身体はまだ震えている。早く歩くことができない上に、何度も躓いて、その度に立ち止まってしまう。完全に足手纏いだ。


 ——なんか、申し訳ないな……。


「すみません、脚がちゃんと動かなくて」


「いえ、大丈夫ですよ。まだ昼前ですから。それに私も今、申し訳ないなと思っていたんですよ」


「何がですか?」


「あの白い腕。トラウマになったんじゃないですか?」


「あぁ……。そう、ですね……」


 白い腕を思い出すと、両手が微かに震えた。


「やっぱり……。恐ろしいものを視ただけでなく、同時に身体の不調も感じていますから、トラウマになりやすい出来事だったと思います。同じようなものを視た時に、思い出してまた恐怖を感じたり、体調を崩したりするでしょうから、それが申し訳ないな、と思っていたんですよ」


「いいえ……。たしかに巻き込まれた感はありますけど、僕が怖がり過ぎているんだろうな、とは思っています。紅凛ちゃんだったら、怖がらずに札を投げつけていたでしょうし」


「まぁ彼女なら、大袈裟に騒ぐでしょうけど、怖がりはしないでしょうね。ただ、紅凛さんは生まれた時から強い霊力を持っていて、特殊な環境で育っているので、あまり参考にはなりませんよ。一ノ瀬さんだって、幼い頃から除霊できるような力を持っていたら、何が出てきても、怖がらなかったかも知れませんよ?」


「そうでしょうか……」


「それに、一ノ瀬さんは充分強いと思いますよ。これがもし、霊力が全くない人間だったら。彼らは死霊の姿が視えただけで、怯えて逃げ出すと思うんです。でも一ノ瀬さんは、恐ろしい姿を視ても、禍々しい霊気に当てられて苦痛を感じても、またこうやって私の仕事を手伝ってくれるでしょう? 中々できることではありませんよ。本当に、感謝しています」


 大して役に立っていないような気もするけれど、そう言ってもらえるのは嬉しい。


 黙ったままで頷くと、御澄宮司が、ふふっと笑う声が聞こえた。


「それにしても、こんなに禍々しい霊気が溜まっているのは、やはりおかしいですよね。分家の者たちは知らないと言っていましたが、帰ったら、この辺りで事件がなかったか、調べてみようと思うんです。全く同じ場所でなかった場合は、ニュースになっていないかも知れないでしょう?」

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