「でも、この辺りに元凶があるわけではないような気がしますね」
御澄宮司は、周辺を見まわしながら言う。
「たしかに、嫌な気配が一カ所に集中しているような場所は、ないですよね。この辺り一帯が、嫌な感じがするというか」
「うーん……。今回は、よく分からないことが多いですねぇ。分家の者たちも度々訪れる地域なのに、誰も異変を感じなかったくらいなので、難しい依頼なのだろう、とは思っていたのですが、ここまでとは……」
彼は大きなため息をついた。仕事の時はよくため息をついているが、今回はやたらと多い気がする。
「御澄宮司……。ちょっと、疲れてます?」
「分かりますか? 表には出していないつもりだったのですが」
「え。そうなんですか? いつもの十倍くらい、ため息をついているような気がするんですけど」
「……おかしいですね。仕事の時は、感情は出さないようにしているんですよ」
声のトーンが変わらないので、彼は本気で言っているのだろう。
——面倒くさそうにしているのも、機嫌が悪いのも、結構分かるけどな。あと、何もないのに、妙に楽しそうにしている時もあるし……。
しかし本人は気付いていないようなので、そっとしておくことにした。
「一ノ瀬さんも、今日は疲れているんじゃないですか? 古寺の裏山で恐ろしい目に遭いましたし」
「僕は隠すつもりはないので言いますけど——めちゃくちゃ疲れてますよ。もう、今すぐ布団に寝転がりたいです」
「分かります……」
「でもまぁ、そのおかげで恐怖心が和らいでいるんだと思います。元気だったら、あんなに恐ろしい目に遭った後で、また山に入ろうとは思いませんよ」
「はははっ、そうでしょうね。しかも、こんなに嫌な気配が漂う山ですからね」
「こんな山、普通なら絶対に拒否します。取り憑かれると後が面倒ですしね。それなのに霊気の漂う山の中を歩いているのが、信じられませんよ」
「手伝ってもらっている立場で言うことではないですが、私も同じ気持ちです。なんでこんな場所にいるんですかね、私たちは……」
「そりゃあ、ため息も出ますよね……」
もちろん、子供たちのために早く解決したいという気持ちはある。けれど、行く先によくない霊気の元があると分かっているのに、進まなければならないのだ。
精神的にも肉体的にも疲れている状態では、どうやってモチベーションを保てばいいのか分からない。
——プロの御澄宮司でさえ、こんなに疲れて、ため息ばかりついているんだ。今回は結構頑張ってるよな、僕……。
「ん……?」
御澄宮司の声が聞こえたのと同時に、嫌な気配が一気に強くなった。
「あぁ……嫌な感じ……」
泣き言を言っても、もうどうにもならないが、声が漏れてしまう。
身体が重い。視えない何かに、上から押し潰されているように感じる。
「一ノ瀬さんは、しっかりと札を握っておいてくださいね」
「はい、もう握ってます……。札が微かに震えているので、嫌な気配に反応しているんでしょうね……」
「その通りです。それにしても、この辺りは随分と霊気が濃いですね。昼間でこれだと、夜は一体どんな風になっているのか……」
「さっきホームページを見たんですけど、陽が長い時期は閉園時間が十九時で、陽が短い時期は十七時になっていました。ちょうど、暗い時間帯は総合公園の中に入れなくなっていたから、被害が少なくて済んだんでしょうね」
「なるほど。管理者は霊気のことなんて知らないはずですが、良い判断をしましたね。夜に、こんなに霊気が溜まっている場所を歩いていたら、確実に取り憑かれてしまいますよ」
生暖かい湿った空気が身体に纏わりついて、息苦しい。こめかみの辺りが、ズキズキと痛む。
そして、山奥から吹いてきた生暖かい風が、顔を撫でた瞬間。
ピイィィィ
甲高いモスキート音のようなものしか聞こえなくなり、身体が動かなくなった——。
暗い森の中。
見上げると木々の隙間から、薄い雲のかかった三日月が見えた。
強烈な喉の渇きを感じる。
水が欲しい。
キョロキョロと辺りを見まわしながら進んでいる。
丈の長い草が揺れると、身が竦む。
怖い。
大木が三本並んでいるのが見えた。
随分と大きな木だ。
進むと下り坂になった。
転びそうになる度に、身体に力が入る。
今度は僕の身長の三倍ほどはありそうな、大きな岩が見えた。
上が尖っていて、三角に近い形の岩。
横には、その半分ほどの大きさの岩がある。
景色が変わって、木々と生い茂る草が見えた。
冷たい風に誘われるように進む。
水が欲しい。
喉が渇く。
身体が重い。
丈の長い草をかき分けて、脚を前に出した時——。
ガクン、と身体が落ちた。
「一ノ瀬さん!」
バシッ!
背中に痛みを感じて、はっとした。
「……あれ?」
少しだけ目を動かすと、怪訝そうな顔をした御澄宮司が、僕を見ている。
「急に、どうしたんです? もしかして、また何かが視えましたか?」
「あ……はい。でも、変なんです……」
「変とは? どんなことでも良いので、聞かせてください」
「山の奥から霊気を含んだ風が吹いて、あの記憶が視えたので、この場所の記憶だと思うんです。でも……なぜか、美奈さんに憑いている男の記憶と、一緒だったんです……」
「え……?」
驚いたような表情をした後、御澄宮司は暗い山の奥を、じっと見つめた。
「……この場所と古寺は、かなり距離が離れているはずです。それでも、同じ記憶を視たんですよね?」
「はい。だから、変だなって思って……」
しん、と静まり返った。
実際に記憶を視た僕も、何が起こっているのか、まだ理解できていない。ここは小学校の子供たちが、恐ろしい夢を見せる黒い霊気に憑かれた場所だ。どうして、美奈に執着している男の記憶と、同じものが視えたのだろうか。
「…… 一度視た記憶は、視えやすくなるんですよ。ただ、それは取り憑かれているわけではなくて、波長が合ってしまうだけなので、そこまで気にする必要はないのですが——。でも、いくら一ノ瀬さんが憑依体質だと言っても、ここからでは距離が遠すぎる……」
「やっぱり、この距離で同じ記憶が視えたのはおかしいですよね……? あ、そうだ。風が……。あの風って、どこから吹いて来たんでしょうか。ここからどんどん山が深くなって行くんだったら、風は吹かないと思うんですよ。例えば、落差がある滝があって、風がこっちまで吹いてきたとか、実はそんなに深い山ではなくて、向こう側に海があるのなら、海風が吹き込んできてもおかしくはないですよね」
「海だとしたら、子供達の夢に出て来た海の可能性が高いですよね」
「僕もそう思います」
御澄宮司は、険しい表情をしている。
——もう、行くしかないのは分かり切ってる。他のことで悩むとしたら、何だろう……。