「ここまで霊気が濃い場所は、そうそうないはずなんですけどねぇ。どうして我々は、こうも頻繁に、悍ましい霊気に晒されることになってしまうのか……」
御澄宮司が不機嫌そうに呟きながら進んで行く。
——本当なら、ただの会社員の僕は、そんな目に遭うことはないはずなんだけどな。御澄宮司のせいで、僕まで巻き添えに……。
地面から彼に、視線を移そうとした時。
突然、全身の肌が粟立ち、足が止まった。肌の表面を何かが這いずりまわるような感覚もある。気持ちが悪くて、思わず両手で自分を抱きしめた。
ピイィィィィィ
高いモスキート音のようなものが聞こえる。頭が痛い。やはり、濃い霊気が充満しているせいなのだろうか。
『……水……。水は……』
頭の中に男の声が響いて、顔を上げた。
——誰の声だ? 今のは、御澄宮司の声じゃなかったよな……?
暗い山の中に目を凝らすと、奥の方で、何かが動いているのが視えた。
「一ノ瀬さん?」
振り返った御澄宮司が、不思議そうな顔をしている。
「向こうに……何かがいます。声も聞こえて……」
「声……? 私は聞こえていないので、もしかすると、美奈さんに憑いている霊気と関係があるものかも知れませんね」
彼は近付いて来て、僕の肩に手を置いた。
二人で、山の奥に目を凝らす。
「あぁ、あれか……」
御澄宮司が低い声で呟いた。
動いている黒い影には、暗緑色の靄が纏わりついている。じっと見つめていると、美奈の家で視た同じ色の靄が、脳裏に浮かんだ。
——距離があるから、はっきりと霊気を感じ取れないけど、僕の中にある霊気と同じような気がする。引っ張られるような感じもするし、間違いないだろう。
「御澄宮司。あれが美奈さんに憑いている男だと思います。なんとなく、身体が引っ張られているような感じがするし……」
「一ノ瀬さんの身体の中にある、あの男の霊気が、反応しているんでしょうね。ついて行ってみましょう」
僕から手を離すと黒い影が視えづらくなるようで、彼は僕の肩に手を乗せたままで歩くことになった。
改めて自分のことを、妙な体質だなと思う。たとえ霊力を持っていない人だったとしても、僕に触っている間は、この世のものではないものが視えるのだ。それだけ僕が、大量に霊気を取り込んでいるということなのだろうか。
暗緑色の靄を纏う黒い影は、ゆらゆらと揺れながら、川の方へ向かって行く。
しばらく進むと、生い茂っていた木々はまばらになって行き、その先にある草原は地面が大きく窪んでいたので、飛び降りた。
「どこまで行くんでしょうね……」
小声で言いながら辺りを見まわす。すると、見覚えがあるものが目に入った。
前方の左側に、僕の身長の三倍ほどはありそうな、大きな岩がある。上が尖っていて、三角に近い形の岩だ。
横には、その半分ほどの大きさの岩がある。
「あっ。御澄宮司、あの岩です!」
「三角に近い形の大きな岩と、隣には半分ほどの大きさの岩……。一ノ瀬さんが言っていたのと、同じですね。ということは、どれほど古寺の方から探しても、見つけられなかったということか……」
「そうですね。古寺とは反対の方向が総合公園ですけど、総合公園から来た僕たちを横切るような形で、あの男は歩いて来ましたもんね。今初めて、あの男の霊気を身体の中に残しておいて、良かったと思いました」
「はははっ。一ノ瀬さんにとっては苦渋の決断だったでしょうけど、私は助かりました。山自体の霊気が強すぎて、私は、昼間で弱くなっているあの男の霊気を、感じ取ることができませんでしたからね」
夜は幾つもの目を、ぎょろぎょろとさせながら、禍々しい霊気を撒き散らしていたが、今は、大した霊力を持っていない僕でも祓えそうなほど、霊気が弱い。
やはり昼間は、人ならざるものたちの霊気が弱くなるようだ。
少し距離をあけて、暗緑色の靄を纏う黒い影について行っていると——黒い影が、ふっと消えた。
「あ!」
「夢であの男の記憶を視た時、落ちたような感じだった、と言っていましたね」
「はい。あそこに洞窟があるんだと思います」
「行ってみましょう」
小走りで近付き、しゃがみ込む。
「あれ? 洞窟というか、岩……? 普通の洞窟だと思ったんですけど……」
「硬い岩盤に、穴が開いている状態ですね。記憶は夜の暗い時間帯だったので、普通の洞窟に視えたのでしょう。まぁ、周りが土だけの洞窟なら、とっくに崩れていると思いますよ。甲冑を身につけて戦っていた時代といえば……。現代に一番近い時代だったとしても、二百年近く前になりますからね」
「なるほど……。そう考えると、二百年もこの世を彷徨うのって、どんな気持ちなんだろうって、考えてしまいますよ。なんだか、可哀想ですよね……。美奈さんを守ろうとするってことは、まだ自我があるんでしょう?」
「そうですね。この山は霊気が濃いですから、そのせいで、こんなにも長い間、彷徨うことになってしまったのでしょうね。——それでは、私たちも中に入りましょうか」
「はい」
男の記憶と同じように、斜面を滑るように下りる。しかし、あの男の記憶よりも斜面が短い気がした。それに、奥には水が溜まっていたはずだが、砂と石があるだけだ。
「やっぱり、記憶とは少し違いますね。奥に水がないですし、砂や石で埋まったんでしょうか?」
「そうかも知れませんね。今は、男の姿は視えますか?」
そう言われて薄暗い洞窟の中を見まわしたが、男の姿はない。けれど、洞窟の端の方に、霊気を感じた。
——あそこに、何かがあるのかな……?