僕たちが男の骨の前で待っていると、暗緑色の靄を纏った黒い人影が、洞窟の中へ入って来た。
水を求めて山の中を彷徨い、洞窟の奥で死んだ男は、死んでからも同じように山の中を彷徨っては、洞窟の中へ入って来る。きっと、数えきれないくらい、この行動を繰り返しているはずだ。
男の記憶を視て、どんな状況だったのかを知っている僕は、もう人間の姿を保てていない男の姿を視ると、悲しくなってしまう。
——だからこそ、もう終わらせてあげないと。
黒い人影は、転がるように斜面を下りてくる。
それに合わせるように、僕が左腕につけている呪具の数珠に、力を込めると、数珠は薄紫色の光を放った。
近くまで来た黒い影は、地面をゆっくりと這っている。いつ力尽きてもおかしくないような状態で、男は洞窟の奥にある水溜まりへ向かったのだろう。
地面に片膝をついて、数珠をつけている左手を、男の方へ伸ばした。
「美奈さんと一緒にいるあなたは、ちゃんと鎮めてもらいますから。……ごめんなさい……」
ずるずると這って来た、暗緑色の靄を纏った黒い人影が、僕の手に触れた瞬間。数珠は眩い光を放った。
紅凛の霊力が込められているので、目を瞑りたくなるほど眩しい。
そして光が消えると——黒い人影の姿は、なくなっていた。
「本当に、ごめんなさい……」
仕方ないことだと分かっていても、罪悪感で泣きたい気持ちになってくる。もう人間の姿ではなく、黒い人影のようにしか視えなかったけれど、僕が、あの男を消してしまったのだ。
「ちゃんと祓えましたね。これくらいの霊気が祓えるなら、こっちの世界でも、普通に仕事ができそうですけど」
平然とした様子で御澄宮司は言う。
褒めてくれているのだと思うが、嬉しさはない。相手がマンガに出て来るような魔獣や悪魔なら、そこまで罪悪感はないのかも知れないけれど、今僕が祓ったのは、人間の霊体だ。
僕は何度も祓ったとしても、その行為に慣れることはないだろう。
「では遺骨を埋めて、戻りましょうか」
「……はい」
近くにあった石を拾って、半分ほど地面に出て来ていた頭蓋骨を埋める。そして墓石の代わりに置いた、大人の頭と同じくらいの大きさの石に、御澄宮司が札を貼った。
「どうか、安らかに眠ってください……」
手を合わせてから、僕たちは洞窟を後にした——。
「蒼汰くんっ! おかえりぃ!」
神社に戻り、境内を歩いていると、元気一杯の紅凛が飛びついて来た。
「あれっ? 蒼汰くん、なんか疲れてるね」
「うん……。疲れてるっていうか、もう無理っていうか……」
隣にいる御澄宮司も、ぐったりとしていて、一言も喋らない。そして彼はそのまま、神社の中へ入って行った。
「何あれ、静かすぎて気持ち悪い。——やっぱり、大変だったの?」
「うん、結構大変だったよ。特に山の中を歩くのが……。とりあえず中に入らない? とにかく、座りたい……」
「いいよ。早く行こっ!」
紅凛が僕の左手を引っ張る。
「あ、紅凛ちゃん。もうちょっと、ゆっくり……」
もう足の疲れが限界を迎えているのだ。早く歩きたくても、歩けないし、引っ張られると足がもつれそうになる。
——明日は、筋肉痛で苦しむことになるんだろうな……。
もう二度と山には登りたくない。そんなことを考えながら、神社の中へ向かった。
紅凛と客間に入ったが、御澄宮司の姿はない。おそらく自分が借りている部屋で、休んでいるのだろう。
車で戻って来る時。僕は助手席に座っているだけだったが、彼はずっと運転をしていたのだ。もちろん古寺の裏山に行く時も、総合公園に移動する時も、運転は御澄宮司だった。おそらく僕よりも、疲れているはずだ。
——少しは休ませてあげた方が良かったのかも知れないけど、でもなぁ……。高級車の運転はしたくないんだよな……。
もし、ぶつけてしまったら。想像するだけで、ゾッとする。
——あ。紅凛ちゃんに言っておかないと。
「紅凛ちゃん。お願いがあるんだけど……」
「ん? なぁに?」
「御澄宮司の依頼の方に、男の人の霊が関係しているのが分かったんだけどね。僕はその人のことを祓うんじゃなくて、成仏させてあげたいんだ。それで、紅凛ちゃんに手伝って欲しいなと思って……」
「うん、良いよ」
紅凛は何の迷いもなく、笑顔で答えた。
「あぁ、でも……。依頼主さんの家に行くことになると思うんだよね。そこに美奈さんていう娘さんがいるんだけど、すごく怖い霊気が身体の中に残っているんだ。しかも僕に対して敵意を持っているから、その霊気が出て来て攻撃される可能性もあって……。もしかしたら紅凛ちゃんにも、怖い思いをさせるかも知れないんだけど、大丈夫?」
「たぶん、大丈夫だと思うよ。私そういうの、怖いと思ったことがないんだよねぇ。小さい頃に、怒ってる神様を見ちゃった時は怖かったけど、幽霊くらいなら、別に怖くないよ」
小さい頃、と言っても紅凛はまだ八歳で、充分小さいのだけれど。
「すごいなぁ。まぁそれくらいじゃないと、霊媒師にはなれないんだろうね。僕は無理だなぁ……。今も、めちゃくちゃ怖いよ」
「蒼汰くんは、怖がりだもんね。あははっ」
否定はできない。御澄宮司の依頼について行って、恐ろしいものを視ると、毎回震え上がっている。
「でも、山に行くって言ってたのは、どうなったの?、何か、見つかった?」
「あぁ、あれは……。御澄宮司が受けた依頼と、紅凛ちゃんの友達が怖い夢を見ていたのって、同じ山に原因があったんだよ。授業で習うと思うけど、昔は戦があって、たくさんの人が亡くなってね——」
「うん、知ってるよ」
「そっか。たぶん怖い夢の方は、戦で霊気が溜まりすぎたのと、その時の人たちが作った祠のせいで起こったことで、御澄宮司の依頼の方は、戦で亡くなった人たちを弔った男の人のせい……? うーん、その人のせいってわけでもないんだけど……」
「どういうこと? その男の人に蒼汰くんは、嫌われているんでしょう?」
「まあね。……美奈さんは偶然、その男の人と、波長が合っちゃったんだよ。美奈さんは霊力がないはずなのに、男の人の姿が視えたし、声が聞こえてしまったんだ。それで、二人は仲良くなったというか……。今は、僕が美奈さんを盗ろうとしている悪い奴だと思って、敵意を向けて来ているような感じなんだよ。別に僕は、盗ろうとしているわけじゃないんだけど……」
「ふうん。それでも蒼汰くんは、その男の人を成仏させてあげたいんだね」
「うん……。あの人は、戦で亡くなった人たちのお墓をたくさん作ってあげた優しい人なのに、自分は山の中を彷徨った挙句に洞窟の中で、ひとりぼっちで死んじゃったんだ。美奈さんのことだって、別に悪さをしようとしたわけじゃないし、あの『疲れた』っていう言葉がさ……。本当に大変だったんだろうなって思うと、胸が苦しくなるんだよね」
「蒼汰くんは、優しいもんね」
「いや、優しくはないよ。洞窟の霊気を祓ったのは——僕だし。しかも、紅凛ちゃんに貸してもらった霊力を使っちゃったんだ。ごめんね……」
「どうして謝るの? 呪具の刀を使うと、男の人が苦しむから、そうすることにしたんでしょう?」
「えっ。知ってたの? 刀を使うと苦しむって……」