メルティーユが食料を持ち、外へ駆け出して行くのをドリーは止めることができなかった。
一人取り残された小屋の中で、ふう、と大きく溜息をつく。長机の上には食べかけのヨーグルトの器と、木製のスプーンが転がっていた。ドリーは乾いた布を瓶の水で軽く湿らせ、テーブルの汚れを丁寧に拭きとる。
身の回りが散乱すると落ち着かないのは“蔦みどろの館”でメイドとして十数年以上務めた際に染みついた、一種の職業病だった。
「ふふ……」
――悲しいまでに“従順なメイド”が板についた自分に苦笑すると、片付けた食器を洗い場に積み上げていく。
続いて、乱れた寝具を綺麗に整え、小屋の隅に放置された箒で掃き掃除に取りかかった。ドリーが無心で掃除に打ち込むのは「性分」という他に、尤もな理由がある。汚れを落とすことで心の靄を払しょくしようと、無意識に体が動いてしまうのだ。
今となっては戸棚の塵ひとつ、床の埃ひとつが目について仕方がない。元々ロート・レーゲンの諜報員として汚れ仕事を請け負っていた自分が、ここまで汚れに敏感になるなんて――ドリーにとって最大の誤算は、メルティーユ、ナディ、アンナと共同生活をしたあの時間で、自分が他者に情を抱く人間であると、気づいてしまったことだった。
組織内で、忠実に命令を実行する「鋼の女」として知られるドリーにとって、それは自分自身の根底さえも揺るがす転機になったのは、間違いないだろう。
◇
――メルティーユ様……。やはり、受け入れてほしいなどと身勝手はことは言えませんね……。今更私が何を言っても、信用して貰えないのは当たり前ですから……。
私は、ロート・レーゲンの諜報員。それ以上でもそれ以下でもありません。他の生き方は知りませんし、目的の為ならばどんな手段も使ってきました。組織の命令なら自ら手を汚すことも厭わず、忠実に任務を努め上げて自分の存在意義を証明してきたんです。
七つの頃組織に拾われた身寄りのない私は、暗殺や伝達を担う諜報員としての教育と技術を、徹底的に教え込まれました。当時は子供ながら、メルティーユ様たちに口が裂けても言えないような任務も務めてきました。それが正義のためだと信じて。自分が組織の役に立てるという事実、ただそれだけが行き場のない私にとっての救済だったのです。
二十二歳の春でした。私は組織の命により、ブラウ様――いえ、ブラウの監視を命じられました。ブラウ《あの男》が「辺境の森で魔法研究を始めた」との情報は既に掴んでおり、我が組織は国政を意のままにしようと目論む宗教機関リラ・クランツの内情を、探ろうとしていたのです。
しかし、並大抵の方法ではブラウに取り入ることは難しい。あの男の周囲には側近の魔術師と教団員が控えており、一般人は容易に近づくことができません。更に、館には
しかし、たった一つだけ――潜入の糸口を見つけたのです。それが、ブラウの屋敷に女中として潜伏する、という方法でした。あれだけのお屋敷ですから、世話人がいてもなんらおかしくない話です。ブラウが研究に没頭している間、家事や雑用をこなす人手も必要になるでしょう。問題は、どのようにして違和感なくあの男の信頼を勝ち取るか、その一点のみでした。
潜入方法を見出した私は、監視任務を遂行しつつ好機を待っていました。そして、それはやがて、意外な形で私の目の前に訪れることになります。
「ブラウさまー!アタシ、あのお人形がほしい!キラキラおめめで、おっきいリボンがお耳についてるやつ!」
「ああ。では、お小遣いをあげようか。これで買ってきなさい。落ち合う場所はさっき説明した通りだからね。私はこれから十分程、教会に顔を出してくるから」
「はーい!」
「……お前は、アンナの後をついて行きなさい」
「はい」
――ブラウが四つか五つの年の少女と付き人を連れ、市を散策する場面に遭遇した私は彼らを尾行しました。“アンナ”という子供は、黒く艶やかな髪と漆黒の瞳が印象的な、美しい少女でした。ミラディア国民の多くは遺伝的に翠の瞳と金の髪を持つ民族ですから彼女のような容姿は注目を浴びますし、恐らく異国の血を引いていることが一目で分かります。
付き人に少女の監督を任せたブラウは、教会へ向いました。あの男は毎週末に
しかし、異国の少女を伴い街に訪れたのは、今回が初めてのこと……。彼女とブラウがどのような関係にせよ、そこに重大な秘密があるに違いないと判断しました。魔法研究の内容次第ですが、あの少女がブラウの計画の肝になっている可能性は高いでしょう。
通例通りブラウを尾行するか、少女の後を付けて情報を探るべきか――。逡巡したのもつかの間、異国の少女が物売り目がけて走り出すのを物陰から目撃した私は、気がつくと彼女の背中を追いかけていました。
真紅の靴と華やかな紅いワンピースを纏い、後頭部で結わえた黒髪を揺らしながら走る小さな背中は、私の目にはひどく眩しく、蝶のように軽やかに映りました。七歳の時に組織に拾われ、間者として育てられた私とは余りにも対照的な、少女らしく可憐でいとけないあの姿――。恥ずかしながら、そこに分不相応な憧憬を重ねていたのかもしれません。
ブラウの付き人は少女からやや離れた一定の距離を保ち、彼女を見守っている様子でした。恐らく、あの
――必ず、どんな手段を使っても目的を果たしてみせます。それが私の存在理由。私がこの世界に生まれた、意味そのものなのだから。