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~第一章 赫いカナリア~ 第八話 魔法の正体 前編

「あの、メルティーユ様……?どうされましたか?」

「別に、なんでもないよ。気にしないで。ドリー」

「は、はい。ですが」

「いいから、お願い……」


 村落の空き家に一人先に引き返したメルティーユは、寝台の縁に腰かけてじっと俯いていた。熱を帯びたその頬を、ドリーから隠そうとするかのように。


 ドリーは様子のおかしいメルティーユを気にかけていたものの、「迎えに行く」と言っていたレオナルドが戻って来ない時点で、二人に何かあったのだろうと察しがついていため、あえて言及しなかった。

「メルティーユ様……」

「……」

 微妙な沈黙が落ちる中、最初に口を開いたのはドリーだ。

「レオナルド様はあの通りの方で、口調も態度も粗暴な一面があります。これまでお屋敷に軟禁されていたメルティーユ様にとって、あのブラウ以外の異性と接する機会がなかった点は、重々承知しております。ですが、この先を考えた時、私一人ではメルティーユ様を到底守りきれないでしょう……。自分の不甲斐なさを悔やむばかりですが……。今は組織ロート・レーゲンに身を寄せるしかありません」

「……ドリー……」


 ドリーはメルティーユの傍に歩み寄り、彼女の隣に腰を下ろした。

メルティーユの視界に、純白の布地に上品な刺繍の施されたドリーのエプロンが映る。黒いスカートの裾とエプロンのレースは、所々ほつれ破けていた。いつも清潔に、美しく保たれていたドリーのメイド服がこれほど汚れている場面は、十年以上の共同生活でメルティーユも初めて見た。

 同時に、胸の奥がきりりと痛む。自分たちの生活はもう二度と“あの頃”には戻らない。――現実を改めて、突きつけられたように感じた。


「どうか、レオナルド様を信じて今は……」

「うん、わかってる。ドリー」

 ドリーは膝の上で握りしめられたメルティーユの手の甲に、そっと自分の手のひらを重ねた。

 ひんやりとしていて、柔らかい。メルティーユは瞼を閉じ、ただドリーの温度を噛みしめる。子供の頃高熱を出した夜、小まめにタオルを交換してくれた優しい手。ドレスを着付けて、身支度を整えてくれた器用な手。

 ドリーがメイドから、反国家組織の一員に変わってしまったとしても、メルティーユにとって彼女は大切な家族だった。


「あのね、ドリー。私、お姉ちゃんが……」

 メルティーユは、先ほどレオナルドと村はずれの丘で会話した時のことを話そうと、口を開いた。その時。


「すぐにここを発つ」

「……レオナルド様、どうされましたか?」


 レオナルドが唐突に扉を開け、室内に踏み入って来た。メルティーユはハッと口を噤み、彼から視線を背ける。一方、ピリピリしたムードのレオナルドはメルティーユに目を向けることはなく、小屋の隅に纏めた荷物を纒め短く「行くぞ」とだけ告げた。


「追っ手、ですか」

「ああ。匿ってくれた村人に、迷惑はかけられねぇだろ」

 ドリーは頷き、メルティーユの肩をそっと叩く。状況は刻一刻と変化しており、適応するだけで精一杯だ。しかし、悠長に立ち止まってはいられない。


 メルティーユはドリーの手をそっと握ると、振り向いたレオナルドに「行きます」と頷き返したのだった。



  レオナルドは王都までは街道を箱馬車で移動する必要があると語った。だが、手配していた馬車の準備どころか仲間と連絡が付かず、更に悪いことに村の入口付近で不審な人影を目撃したという。


「俺たちが悠長に構えていたらあの“刺客”が、この村ごと消し去りに来るだろうよ」

「そんな……。不審な人物って、箱馬車を襲った人たち……ですか?」


 メルティーユは未だ、半信半疑だった。夜盗の襲撃ならいざ知らず、たった一人の人間が村を消し飛ばすなんて想像もつかない。だが、レオナルドは首を振って続けた。


「アイツは恐らく王都の魔術師部隊アルベルトの一員だ。単身で俺達を追って来たのなら、上級クラスの可能性もある」

「魔術師部隊……?箱馬車を襲撃した宗教機関リラ・クランツとは違うの?」

 メルティーユにはまたしても初耳の名前だった。ドリーが小声で捕捉する。

「はい。王都ラパンを拠点にする組織はアルベルトとリラ・クランツです。いずれも国家組織ですが、二つの目的は大きく異なります」

「……良く分からない……。なんだか頭がごちゃごちゃしそう……」

「状況が落ち着いたら、ゆっくりとご説明しますね」


 メルティーユが現段階で理解できるのは、アルベルトもリラ・クランツも「敵」という一点のみだ。混乱する彼女に対しレオナルドはため息を吐き「お前の味方は俺たち反国家組織ロート・レーゲンだけだと覚えておけばそれでいい」と付け加えたのだった。

 レオナルドは急遽、イル渓谷を抜け一旦王都ラパンの中間地点に辿り着いた後に仲間と合流し、体勢を整える計画を立てたらしい。

険しい道のりだが街道越えが果たせない以上、このルートが最適との判断だった。しかし、メルティーユにとって渓谷だろうと箱馬車だろうと、困難な旅なのは間違いない。

 その上、もうすぐ日没だ。傾き始めた西日が村の藁ぶき屋根を照らし上げている。本来なら夜の渓谷移動はリスクが高いにも拘らず、レオナルドが「強行」を即決した意味をドリーは察した。「準備は任せて下さい」の言葉通り、持参済みのランタン二つに魔法石を嵌め込んで明かりを用意すると、渓谷に不向きなメルティーユのブーツの代わりに、自分の手荷物から布靴を貸し与えた。


 こうして、非常食とドリーの照明道具、水の瓶を三人で分担して革袋に詰め終えると、一向は街道から大きく逸れた“イル渓谷”を目指して出発した。


 渓谷の入り口は、清流と新緑の葉が揺れる葉擦れの音に満ちていた。地面はは落葉と小枝に覆いつくされ、足元はぬかるんでおり歩きずらい。木々が生い茂る林は見通しが悪く、土地勘があっても油断すれば道に迷ってしまいそうだ。

「ふう……」


 軟禁されていた頃、メルティーユの行動範囲は屋敷内と庭先、そして蔦みどろの館の目と鼻の先にある林だけだった。

 林道を歩いた経験はあるが、傾斜のある険しい山道を長時間歩くのは、初めての経験になる。

 足を取られないよう、一歩一歩慎重に進んでいく。歩くだけでこれ程神経を使うのは初めてだ。額と背中には冷や汗が伝い落ち、呼吸が浅くなっていく。 メルティーユの前方にはドリーがおり、時々後ろを振り返ってはメルティーユに声をかけてくれる。一方、足場と状況を確認しつつ二人を先導していくのは、レオナルドの役目だ。メルティーユの目に映るのはドリーの背中のみで彼女に追いつくのも一苦労という状態だった。


 ――分かっていたけど、体力が全然ないみたい。せめて足手まといにはならないように、頑張らなくちゃ……。


 箱馬車の事件からメルティーユは自分の力不足を実感し、もやもやした感情を抱えていた。

 ドリーもレオナルドもメルティーユが世間に疎い点を認め理解し、寄り添おうとしてくれる。だからこそメルティーユは、その期待に応え役に立ちたいという、強い使命感に駆られていた。……自分の価値を求め、足掻くように。


 木立がかさかさと風と騒ぎ、遠くで耳慣れない甲高い鳥の鳴き声が響いている。

 黙々と進行すること、二時間あまり――やがて大木に覆い隠れていた厳然たる岩肌が姿を現し、メルティーユは思わず息を呑んだ。


「凄いね……。ドリー、まだ先は長いの?」

「ええ……。このまま上流を目指して進めば橋が見えてきますから、そこを渡ればもうすぐです」


 一行が小休止をとれたのは、切り立った崖に挟まれた渓流に、辿り着いた頃だった。ドリーは川べりの大きく平らな岩に腰を下ろし、メルティーユはその傍らにちょこんと座る。


 レオナルドは二人から十メートル程離れた位置に立ち、周囲に目を配っていた。腰元の鞘に手を当てた状態で、すぐに剣を振るえる体勢を維持する彼は、メルティーユにとっては頼れる存在であると同時に、謎の多い困惑の対象でもあった。


 今のレオナルドには、ほんの一かけらの隙も油断もない。剣の心得が無い素人のメルティーユですら、彼の放つ殺気に怖気づくほどだった。


 こそりと遠目から横顔を窺っていると、その微かな気配すら察したレオナルドが、一瞬振り返りメルティーユを見つめた。


「……」

 言葉はないものの、不機嫌な目線は「何を見ているんだ」と詰問しているように感じる。メルティーユは動揺を悟られぬようふいっと顔を逸らすと、気持ちを切り替えてドリーに向き直った。

「ね、ねえ、ドリー。一つ聞いてもいい?」

「ええ。私で答えられることであれば、喜んで」


 ドリーは柔和な笑みを浮かべ頷く。メルティーユは一呼吸を置き、口を開いた。


「今日、村のはずれで昼寝してたレオナルドさんが、寝言で言ったの。……サラって」

「サラ……?」

「う、うん。……それで、組織ロート・レーゲンには、サラって名前の人はいるのかな、って?」


 ――“サラ”はミラディアではそれほど珍しくはない名前だ。偶然同じ名の、赤の他人の可能性もある。しかし、レオナルドが囁いた姉の名がどうしても耳奥に焼き付いて離れないメルティーユは、過去の家族の想い出に焦がれ、訊ねずにはいられなかった。


 ドリーは暫し思案するように瞼を伏せ、やや間を置いてから呟く。

「いいえ。私の記憶ではサラという名の女性は在籍していなかったと思います。レオナルド様の個人的なお知り合いで、組織とは関係ない方では……と思いますが」

「……そ、そっか。それなら別にいいの」

「メルティーユ様、気がかりなことがあるのですか?」

「え?」

「もし宜しければ、詳しく話してくれませんか?職務とはいえ、メルティーユ様やアンナ様……ナディ様を苦しめ続けてきたのは、事実です。自分の罪が許されるとは到底思えませんが、少しでも償わせていただければ、と」

「そんなことないよ。わたしたちはドリーに危害を加えられたワケじゃないんだし……」


 ドリーは「それでも」と縋るようにメルティーユの顔を見た。彼女が抱えた罪を理解はできないメルティーユだが、それでもドリーを憎む気持ちになれないのは確かだ。

「わたし、お姉ちゃんがいたの。お姉ちゃんの名前はサラ。事情があって、一緒には暮らしていなかったけど」

「そう、だったのですか?それは、初耳ですね……」

「ドリーも知らないんだね」

「はい」

 ドリーの口ぶりからして、嘘を吐いているとは思えない。ブラウは自分の女中にすら、手の内を明かしていないかもしれない。メルティーユは唇をきゅっと噛みしめた。やはり、真相には自分で辿りつくしかないのだ。

 思いつめるメルティーユに対し、ドリーは「お姉さんの情報は組織と合流後必ず調査します」と励ましたのだった。



 二十分程度の小休止が終わると、再び渓谷を北上しながら目的を目指す。ごつごつした砂利道は、一足ごとにメルティーユの体力を奪った。既に足裏の感覚はなく、時折躓きそうになりながらただひたすら歩く。

 渓谷に発つ前に予め撥水性能の高い布靴に履き替えたメルティーユだが、それでも長距離の強行軍は骨が折れるものだ。


 先頭のレオナルドだけでなくドリーも口数が減り、三人の間に会話らしい会話が消えた、日没間近の夕刻――。

 日没前に可能な限り進みたいと話したレオナルドだが、事態はスムーズにはいかなかった。


「……っ?伏せろ!」

「え……っ?ひゃっ……?」


 刹那、レオナルドの怒声が響き、ドリーに肩を抱かれたメルティーユは地面に伏せる。

 双剣を抜いたレオナルドが対峙する先には、切り立った崖に絡みつく蔦のカーテンがざわめいていた。メルティーユは背筋に悪寒を感じつつ、ビリビリとした緊迫感に息を殺す。


 しかし、ややあって静寂を打ち破ったのは悲鳴でも怪しい人影でも、レオナルドの剣圧でもなかった。


「みぃ……」

「え?」


 小さな、子猫の鳴き声。 蔦の裏から姿を現したのは、メルティーユも初めて見る生物だった。メルティーユの脳裏には、蔦みどろの館で共に暮らしたブラウの飼い猫「エル」の姿が蘇った。しかし当然ながら、嶮しい渓谷に家猫が一匹で生存できると思えない。


「なんだ、コイツは」

「私も、初めて見ました。この渓谷のみに生息する草食動物でしょうか……。猫や犬、とも違いますね」

 レオナルドは警戒しているものの、目前の小動物が「みぃ、みぃ」鳴くだけと知ると盛大な溜息をつき、双剣を鞘に納めた。


「二人とも知らない生き物なんだね」

「はい。存じ上げません」


 博識なレオナルドとドリーも初見だという生物は、子猫程度の体躯しかなく、白いふさふさした長毛に全身が覆われている。耳は一般的な猫と酷似しており尖った先端が長く垂れているのが特徴的だ。金色のつぶらな瞳でこちらを見上げ、小首を傾げる仕草は愛くるしいことこの上なかった。

「可愛い……」

 思わず、素直な感想が口から零れるメルティーユ。すると、謎の小動物は「みー!」と高らかに鳴き、目にも止まらぬ速度でメルティーユに駆け寄っては足元に擦り寄ってきた。

「……っ」

 あまりに突然の出来事に、メルティーユは声を失う。小さな野生動物はぐるぐると喉を鳴らして、踝に何度も頭を擦り付けてきた。

「ひゃ、く、くすぐったい……」

「おい!平気か?」

 これは流石のレオナルドも反応できず、呆然と立ちすくむしかなかったようだ。ドリーも同様に、メルティーユの傍らで小さな生物を注意深く見守っている。

「だ、大丈夫。なんともないみたい。この子、危ない生き物には見えないけど……」

「みぃ、みぃー……」

「おい、離れろ。行くぞ」

「は、はい。でも……」


 レオナルドはメルティーユと足元の動物を睨み、ドリーに目配せすると再び岩肌を先に歩き始めた。

「行きましょう、メルティーユ様。野生動物に人間が干渉するべきではありません。一見愛らしくとも生態が分からない以上は、油断できませんからね」

「……う、うん……」

 ドリーはメルティーユの肩に軽く触れると、先へ進むように促す。その間にもレオナルドは、黙々と前進していた。


「ごめんね、連れてはいけないの。さよなら……」

「みぃ!みぃ~!」


 メルティーユは後ろ髪を引かれながらも、小さな動物を振り切って二人の後を追いかけたのだった。


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