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~第一章 赫いカナリア~ 第九話 魔法の正体 中編

  薄暗い渓谷の林間を、淡い魔法石の光がぼんやりと照らし上げている。手元のランタンのあたたかい明かりは、メルティーユが良く見慣れた懐かしい赤い色だった。

 蔦みどろの館では、ランプといえば“魔法”の炎だ。ブラウが魔法研究に精通していたこともあり、屋敷は無数の魔製道具ソーサラーツールで溢れ返っていた。メルティーユの日常生活において魔法は身近なものであり、あの館での同居生活は、魔法なしには実現できなかっただろう。

 照明器具には炎、食料保存庫には氷、入浴には水といった風に、属性ごとに異なる魔法石スペルストーンが生活の基盤を支えていたのだ。


 だが、魔法や魔法石を自由に扱えるのは、ミラディアでもごく一部の限られた国民のみ。メルティーユの故郷の村人が飢えていたように、多くの貧困層は最低限度の生活を維持するのがやっとだった。

 薪で火をおこして暖をとり、冷蔵技術はないので日持ちしない食料は乾燥させて塩漬けにしたり、醗酵食品や燻製に変えて保存するのが一般的だ。


 蔦みどろの館を追われたメルティーユは国の現状を知り、自分がブラウの元でいかに過保護に育てられたか思い知った。

――あの館には何でもそろっていた。食料を何時も新鮮に保つ冷蔵保存庫。快適であたたかい室内と、清潔なバスルーム。必要な時に好きなだけ、燃料を気にせず使用できるランプの明かり――。

  魔法や魔法石を誰でも自由に使えるようになれば国民の生活は繫栄し、貧困に苦しむ人々はいなくなる。誰もが平等に魔法の恩恵を得られれば、どれほど世界は豊かになるだろう。


 手持ちランタンの球体ガラスの下部――燃焼部の土台には、燃料代わりの魔法石スペルストーンが組み込まれ、煌々と炎が揺らめいている。魔法石の燃焼時間は平均十二時間とされるが、長時間連続使用すると内包された魔力の消耗が激しくなり、交換時期が早まるとドリーから説明を受けた。

 メルティーユとドリーの二人はランタンを片手に持ち前方を照らしつつ慎重に進んでいるが、レオナルドは「手が塞がる」という理由で、首にぶら下げた装飾品のペンダントトップ内に魔法石を装備していた。

 元々夜目が利くタイプらしく、迷いなく前進する彼にメルティーユは呆気に取られてしまった。足元は一向に安定しない上、水気を帯びたぬかるんだ砂利道が延々と続いていく。

 光景は変わり映えせず、視界が制限されたことで余計に徒労感が増幅していった。


 日没を迎え周囲が宵闇に支配された頃、一行は渓谷の中心へ差し掛かった。

傾斜のきつい坂を上りきりメルティーユの体力は既に限界だったが、雄大な滝の流れる音と付近を飛び交う夜光虫の薄桃色の光に、彼女はハッと息を呑んだ。視界はきらきら眩く輝き、花びらの洪水のような輝きに、鼓動は弾み高鳴りが止まらない。


「わあ……綺麗……!すごい、こんな風に光る虫もいるんだね……」

花瓣はなびら蛍光虫ですね。ごく限られた自然環境の良い地域にのみ生息する珍しい昆虫で、腹部から薄桃色の光を発して互いにコミュニケーションを図るようですよ」


 暫く足を止め、うっとりと川べりの蛍光虫に見惚れるメルティーユ。ドリーはその傍らに立ち、花瓣はなびら蛍光虫の生態を教えてくれた。

 うら若き乙女が幻想的な光景に目を奪われるのは当然だが、その場に釘付けになったメルティーユを見たレオナルドは、あからさまに大きな溜息をついた。

「おい、いつまでそこにボケっと突っ立っているつもりだ?……とっとと行くぞ」

「あの、レオナルド様……。お言葉は尤もですが、ここまで休憩もありませんでしたし、いくら光源があるとは言え夜も更けて参りました。メルティーユ様もお疲れでしょうし、もう少しペースを緩めても……」

「ンな事ァ分かってるよ。俺だって鬼じゃねえからな。だが、最初に言ったように休息はせめて橋を越えてからにしろ。大体、イル渓谷自体安全な場所じゃねえ、この滝にはな――……」

 ドリーがメルティーユを気遣ってレオナルドに意見を述べた、その時だった。


「ガアァァアアァァ……ッ!」

「ひゃあっ!?」

「……っ!メルティーユ様!」


 その影は唐突に、瀑布を打ち破って姿を現した。

ドリーが身を挺してメルティーユの前に立ちふさがり、魔法結界を張り巡らせて水飛沫の弾丸を防ぐ。


「……な、何なの……?」


 ランタンを取り落とし、その場に尻餅をついたメルティーユは、ただ愕然と滝から飛び出して来たその「生き物」を凝視していた。

 まるで滝そのものに寄生しているかのように激流から突き出した上体は、夥しい鱗でぎっちり覆いつくされている。筋骨隆々とした上半身は人間と酷似しているが、両腕の代わりに鎌の如く鋭利な長い両ビレを広げていた。また、てかてかと黒光りした顔面は闇に溶け込み眼球だけが爛々と光っているが、顔立ちは紛れもなく魚類そのものだ。目蓋がなく、瞬きもしていない。


 魚なのか人類なのか判別できないその生き物が鎌を振るう度、渓谷全体が振動で揺れ、飛び散った水飛沫は弾丸のように一行めがけて飛んで来た。 

 単なる水鉄砲とは思えぬ一発の威力は、岩肌を抉り砂利道に空洞を空けるほどだ。


「此奴は魔法を操る魚人類、魔物の一種だ!チッ、まさか本当に生息してやがったとはな……」

 レオナルドだけは、この生物に関して知識がある様子だ。飛来する無数の水鉄砲を双剣で防ぎ、次々と切り伏せていく。

「此奴は水場からは動けねぇ!この場を切り抜ければ追ってはこない筈だ!とにかく走れ!!」

「わかりました……行きましょう、メルティーユ様」

「う、うん……っ」


 レオナルドが滝から降り注ぐ雨のような弾丸を切り裂き、その後ろから魔法結界でガードするドリーがメルティーユの護衛を務める。


 ――二人だって、渓谷を歩き続けて疲れている筈なのに……。またわたしを命がけで守ってくれてるんだ。なのに、わたし……。


 ただフラフラとついて行くしかない自分に、メルティーユはぐっと唇を噛みしめる。何度も何度も自分の無力を呪ったが、この時彼女の脳裏をよぎっていたのは後悔ではなく、渇望だった。


「あの力が――もう一度使えれば……」


 それは、箱馬車が襲撃された際、命の危機に晒された自分の内から湧き上がった“魔力”だ。ドリーの魔法結界とも違う、ベールのようにらせん状に広がり膨らむ、あの真紅の光。

 以前に蔦みどろの館で、アンナが風の魔法を自在に操っていたように。もしも自分に、魔力の才能が眠っているというのなら……。そしてそれが、ブラウの手にかかった忌むべき力だとしても、誰かの役に立つのなら……。


「橋が見えてきた!!止まるな、前進しろ!」

「はい、レオナルド様」


 そして、水弾丸で破壊された岩石の破片と木々の残骸が周囲に巻き上がる中、ただひたすら走るメルティーユの視界の端に、小さな白い毛玉が映った。


「み、みぃ……みぃ……」

「あ……っ、あなたは、さっきの……」

「くぷ……」


 力なく鳴く蹲る猫のような生き物は、先ほどメルティーユに懐いて途中まで付いてきた、あの野生動物だった。ふわふわの毛並みがところどころ泥と血に汚れ、ぐったりと岩と岩の隙間に縮まっている。


「まって、ドリー……!この子、この子が……」

 メルティーユが屈みこんで岩の隙間に腕を伸ばそうとすると、ドリーが一旦足を止めて振り返った。


「メルティーユ様……?」

「怪我をしているみたいなの、助けてあげたくて……!」

「いいえ、駄目です。行きましょう、メルティーユ様……」

「……でも」


 苦しそうな呼吸と、微かに漏れ聴こえる力ない鳴き声――メルティーユはどうしても小さな命を諦められず、その場を動けなくなっていた。

 ドリーは諭すようにメルティーユに再度呼びかけると、一歩ずつ前進しながら障壁で弾丸を弾いていった。彼女の肩は上下に大きく揺れ、足元は時折頼りなくふらついている。


 ドリーだって必死なんだ。ドリーだけじゃない。レオナルドさんだって戦ってくれてる。早く行かなきゃ、逃げなくちゃ――。でも。でも……。


「きゅ……」


 死を待つしかない非力で憐れな生物の姿が、メルティーユの目にかつての自分の姿と重なって映った。幼い頃、村が襲撃されたあの運命の日。なすすべなく家屋と共に焼け落ちるはずだった自分が奇跡的に命を救われたのは、差し伸べる手があったからだ。たとえその手が、どんな思惑を抱えていたとしても。


「待ってて、絶対に助けてあげる……」

「……みぃ……」


 メルティーユは腕を限界まで伸ばし、身を乗り出して動物を救い出そうともがいだ。体力が尽きた体に鞭を打ち、震える脚に力を込めて全力で踏ん張る。


「届いた……!」

「みゅっ」


 この子を暗闇から救える――そう確信した、刹那だった。


「クソが!!」

「……きゃあぁっ……」

「……ドリー!?……レオナルドさん……!うぅッ……」


 レオナルドの叫びが轟き、水砲弾がメルティーユの両脇に直撃すると、岩石が抉られた衝撃で吹き飛ばされた彼女は、小動物を抱いたままその場に倒れ込んでしまった。体にダメージがなかったのは、咄嗟にドリーがメルティーユに結界を張ったためだが、その代償はあまりに大きかった。


 メルティーユ本人は何が起きたのか判断できず、声を失っている。ドリーは左脹脛に砲弾が掠め負傷し、身動きできない状態。更に最悪なことに、前線で盾役を務めるレオナルドの前にも、新たな“敵”が立ちはだかっていた。


「――あーあ……。ほんっとバッカみたい!大人しくあの村に滞在していたら、もっと楽に殺してあげられたのにさ~?」

「うぅっ……ぁ……」


 ――どこかで、聞き覚えのある声だ。とても懐かしくて……。心臓がぎゅっと握り潰されるみたい。……怖い……。


 メルティーユは、呻き声を上げつつなんとか半身を起こし、前方でレオナルドと対峙する人影を探ろうとした。

 既に手元にランタンはなく、周囲を照らしているのは薄桃色のはかない花瓣はなびら蛍光虫の光のみ。ボンヤリと浮かぶ光がふわふわ宙を漂う様は、まさに花びらのようだった。


「ドリー……!ドリー……ごめんね……っ」

「メルティーユ様、すみません……。力及ばず……」

「ううん、違う……。わたしが……わたしのせいで」


 ドリーは地に伏せて尚、メルティーユの為に魔法結界を張り巡らせていた。這いつくばってドリーに接近すると、彼女を腕に抱き寄せるメルティーユ。

 命拾いした野生動物はメルティーユの傍を離れず、彼女の肩に飛び乗りくっついてきた。

「怪我してる……」

 ドリーの左足は折れてはいないが、皮膚が裂けて出血していた。「打撲と捻挫ですぐに動けないようです」と顔を歪めるドリーは、メルティーユに謝罪を述べつつ、悔しそうに目を伏せた。


「今の私は、レオナルド様の足手まといでしかありません。私の残された魔力を使って、お二人のために魔法結界を張ります。これが組織としての私の、最後の任務になるかもしれませんね。必ずお二人が、この渓谷を抜けられますように……」

「そんな……っ、やめてよ、ドリー。最後なんて――」


「クソッ……!テメエ、やはり魔術師だったか……。魔術師部隊アルベルトは相当ヒマを持て余しているとみえる。こんな極小の反国家組織を狙うくらいしかまともに仕事出来ねぇとは、とんだお笑い草だな!国民から徴収した税金で私腹肥やす前に、やるべき事が他にあるだろうが!」

「はぁ?アルベルト?このアタシが……?……ふふっ、アハハハハハッ!この麗しく優秀な魔術師のアタシを、あんな低俗無能集団と一緒にしないでくれる!?」


 レオナルドに“アルベルトの魔術師”と呼ばれた少女は、さも滑稽とばかりに高笑いし、ローブのフードを下ろして片手をひらりと挙げた。


「……アンナ……なの……?」


 空耳でも、幻覚でもない。どこにいても良く通る凛としたあの声。館の家族を酷薄な笑みを浮かべて傷つけた、美しく高慢な少女――。


「……アンナ様……」

 メルティーユの膝枕に頭を預けたドリーは微かに唇を動かし、掠れた声音でその名を呼んだ。


「どうして、アンナがここにいるの……?」


 蔦みどろの館が既に焼き払われたことは、メルティーユも知っている。しかし、あの屋敷に残されたアンナ、ナディ、飼い猫エルの消息は分からず、消息不明になっていた。


 アンナ《姉》が生きていた――それは家族としては喜ばしい事実だ。だが、メルティーユは複雑な心境で、混沌とした事態を見守るより他になかった。

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