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第82話

 ついでに掃除も定期的に来よう。また一つ神森家ですべき事を見つけた鈴は、小さく微笑んで道具をまとめて祠に一礼して祠を後にした。


 帰り際にあの大きな木をそっと触ると、何だかホッとする。


「これからも長生きしてくださいね」


 何気なく鈴が言うと、木は風もないのに木の葉を揺らす。驚いて鈴が顔を上げると、あちこちから小さな囁き声がした気がした。


 ここは龍の住む屋敷だ。何か不思議な事が起こっても何もおかしくはない。


 これがお化けの類であれば間違いなく鈴はそこから逃げ出していただろうが、千尋のお膝元にお化けなど居るわけがない。何せ本人もそう言っていたのだから!


 無事に森を出ると、弥七は本当に森の入口で植物の世話をしていた。辺りはもう薄暗くなっているし冷え込んでいるというのに。


「弥七さん! まさか待っていてくださったんですか!?」

「別に待ってた訳じゃないが、遅いからそろそろ見に行こうかとは思ってた。泥だらけだな。早く風呂に入れよ。冷えただろ?」

「弥七さんこそ寒かったでしょう? お風呂、お先にどうぞ」

「いや、流石にそれは姉御に叱られる。俺に早く入ってほしかったら、さっさと入る事だな」


 そう言ってイタズラに笑った弥七を見て鈴は頷いて急いで屋敷に戻った。そんな鈴の背中に弥七のおかしそうに笑う声が聞こえてくる。


「冗談だ! しっかり温まれよ!」

「はい! ありがとうございます!」


 鈴が立ち止まった振り返り弥七に頭を下げると、弥七はさらに笑って早く行け、と手で合図してきた。


 屋敷に戻ると雅が玄関先の掃除をしていて、鈴を見るなりポカンと口を開けた。


「あんた、沼にでも入ったのかい?」

「そんなに泥だらけですか? 思っていたよりも腐敗が進んでいて、屋根の板をほとんど交換したんです」

「屋根の板を交換!? あんたが!? 馬鹿だね! そういうのは弥七に任せるんだよ! ほら、さっさと風呂に入っといで! 出たらすぐに夕食だよ!」

「あ!」


 それを聞いて鈴は思わず声を上げる。そんな鈴に雅は訝しげに首を傾げた。


「何だい?」

「あの……皆さんのご迷惑じゃなかったらその……一緒に食べてもいいですか?」

「あたし達とかい?」

「はい。千尋さまが戻るまででいいので、その……」


 佐伯家に居た時は一人で食事を取る事など慣れていたはずなのに、今はもう誰かと一緒でないと寂しくて仕方がない。


 それだけ言って視線を伏せた鈴を見て、雅が頭を撫でて言う。


「あたし達は全然構わないよ。それじゃあ支度するから、あんたはまず風呂行きな!」

「はい!」


 鈴は雅にお礼を言って走り出す。


 神森家に来てから毎日が楽しくて仕方ない。自由に外に出られる訳ではないけれど、鈴はそれでも幸せだと思えた。



 鈴が作ってくれた弁当をあっという間に平らげた千尋は、楽に後片付けを頼んで自室に戻った。


 待ち合わせの店に向かうために着替えていると、ノックの音が聞こえてくる。


「開いていますよ」


 千尋が返事をすると、控えめにドアが開いて楽がそっと顔を覗かせた。


「千尋さま、今夜は遅くなりますか?」

「どうしてです?」

「いえ、早く戻られるのなら明かりは落とさない方がいいかなって」

「楽が寝る時に明かりを落としてしまってください。何時になるか分からないので」


 そう言ってふと千尋は手鏡を取り出した。これは仕事用ではなく、自分の物だ。この片割れは今は雅に渡してある。何かあればここに雅から連絡が来るはずだ。


「あ、鏡は置いていきますか? 預かっていましょうか?」

「そうですね……いえ、今日は持っていきます。もしかしたら何か連絡が入るかもしれませんから」


 千尋はそれだけ言って鏡を懐に仕舞った。そんな千尋の仕草と言動に楽はまた驚いた顔をする。


「千尋さまが鏡を持ち歩くだなんて! 以前はあれほど煩わしいと言っていたのに!」

「前回はそれこそひっきりなしに連絡がありましたからね。ですが今回はきっと大丈夫でしょう」


 前回の里帰りは花嫁探しの真っ最中だった。今のようにまだ全国から巫女が自ら名乗り出てくれていた時代だったが、誰でも良いという訳ではなかったので、その間雅から次から次へと花嫁候補の素行や性格などの連絡が入ったのだ。


 それは千尋から言い出した事だったけれど、一体どうなっているのかと言うぐらい毎日報告があったものだから最終的には鏡を楽にずっと預けていた。


 けれど今回は鈴だ。恐らく何の報告もなく毎日が過ぎるだろう。それでも一応持ち歩くのは、鈴の場合は少し気がかりな事があるからだ。

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