「人間の女ではありません。鈴さんですよ、楽」
千尋が嗜めるように言うと、楽はすぐさま頭を下げて「鈴さん」と言い直す。
「ところで楽は何をしていたのですか?」
「あ、俺は帳簿を付けていました。俺の配給で今月はどこを直せるかなって」
「ああ、そうでしたね。あなたにこれをお渡ししておきます」
すっかり忘れていたが、楽はこの屋敷を自分の分配金で修繕していたのだ。今までの分とこれからの分を渡しておかなくてはいけない。
懐から取り出したのは、千尋の金庫の鍵だ。それを楽に無理やり握らせると、居間にかけてあった楽の外套を持ってくる。
「なんですか? この鍵」
「私の金庫の鍵です。今までの分配金が全てそこに入っているので、あなたが今までこの屋敷の修繕に支払った分と、執事のあなたに払うべき給料をそこから出してください。そして、これからはそこからあなたの給料と屋敷の修繕費を出すんですよ」
「な、何言ってるんですか!? そんな大事な物、俺預かれません!」
「どうしてです? あなたはこの屋敷の執事になるのでしょう? でしたら、私の代わりに財産管理をするのもあなたの仕事ですよ」
「で、ですが! 万が一、万が一俺が使い込んだり持って逃げたりしたらどうするんですか!」
流石に金庫の鍵を預けるのは楽には荷が重かったのか、楽は可哀想なほど青ざめて震えている。
「安心してください。さほど入っていませんよ、その金庫には」
「え……金庫、何個あるんですか?」
「3つですね。その鍵は分配金の金庫の鍵です。だからその金庫の中身は好きなだけ使いなさい」
「む、無理です!」
「では、今のように出納帳をしっかりつけておいてください。ほら、これを着て」
言いながら千尋は楽に外套を無理やり着せた。そんな千尋の行動に楽は唖然としているが、そんな楽の手を引いて屋敷を出る。
「ち、千尋さま? 一体どこへ……」
「言ったでしょう? 人間界では今日から新年です。縁起担ぎに私達も蕎麦を食べに行きましょう」
「ふ、二人で!?」
こんな事、100年前では考えられなかった。きっと、楽はそう思っているのだろう。もちろんこんな事をしようと思ったのは千尋にとっても初めてだった。
結局、楽は「無理だ、帰る」などと言いながらも千尋に付き合ってくれた。
店について向かい合わせに座って楽を見ると、可哀想なほど縮こまってしまっている。そんな姿が何だか初めて一緒に買物に行った時の鈴と重なる。
「ふ……」
「千尋さまがわ、笑ってる……」
「すみません、少し思い出し笑いです」
「思い出し笑いですか。あ、この間の飲み会ですか?」
「いえ、あなたの今の姿が鈴さんにそっくりだったので、それを思い出したんです」
「そ、そうでしたか。それで飲み会は楽しかったですか? 100年ぶりですもんね。俺なんて帰りを待ってるつもりだったのに、途中で寝ちゃって……すみません」
こんな失態は執事としてありえない! と言わんばかりに楽が落ち込むので、千尋はゆるく首を振った。
「いいえ、構いません。飲み会はそれなりに楽しかったですよ」
「それなり、ですか」
「ええ、それなりです。それ以上でも以下でもありません」
こういう所が千尋だと流星が聞いていたら言いそうなセリフだが、本当にそうなのだから仕方ない。
「そう言えば初さまともお久しぶりに会ったのでは? あ、でも毎日鏡とかで連絡取ってますよね! だとしたらそんな久しぶりって感じもしないのか……」
「いえ、初とも100年振りですよ。鏡を私達が使う時は本来なら緊急の時だけですので」
特に用事も無いのに頻繁に連絡をしてくるのは雅ぐらいだ。
いや、先程の雅の連絡は素直に嬉しかったのだけれど、前回は本当に酷かった。
楽はどうやら千尋と初がこまめに連絡を取っていると思っていたようで千尋の言葉に目を見開いているが、千尋が初と鏡でやりとりをするのは花嫁が決まった時にする事務的な連絡だけだ。だから初とは正真正銘100年ぶりの再会だった。
それを告げると楽は明らかに驚いたような顔をして千尋を凝視してくる。
「じょ、冗談ですよね!? え……番、なんですよね?」
「ええ。ですが私達はどちらかと言うと幼馴染という事と優秀な遺伝子を残すための番ですから、特別な感情はお互いに抱いていませんよ」
少なくとも千尋はそうだ。はっきりと聞いた訳ではないので初の方はどうかは分からないけれど、初から特に何を言ってくるでもないのでそこは想像するしかない。
「……高官のお仕事をされる人は皆さん、そんな感じなのですか?」