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第102話

 呼吸がしにくいのか浅い息を繰り返す鈴の額には、玉のような汗がいくつも浮かび、時折激しく手足が痙攣する。


「千尋! とりあえずお湯だ。鈴の体は異常なぐらい冷えてるから温めるよ」

「ええ、お願いします。鈴さん、大丈夫です。もう何も心配しなくて良いですよ」


 そう言っていつものように鈴の頭を撫でて力を注ぐことに集中するが、一向に体の中が浄化されない。


 その時だ。ふと、鈴の唇が微かに動いた。


「鈴さん?」

「ちひ……ろ、さま……?」

「ええ、今しがた戻ってきました。ここに居ますよ」


 安心させようと鈴の冷え切った手を握ると、鈴がほんの少しだけ口元を緩める。


 微かな空気混じりの声はよく耳を澄まさなければ聞こえないほどだったが、どうにか聞き取ろうと千尋が鈴の口元に耳を近づけると、鈴は囁くように声を絞り出す。


「う、いさん……会え……ました……か?」

「ええ、会えました。あなたが選んでくれたお土産も喜んでくれましたよ」


 千尋が言うと、鈴は今度ははっきりと微笑んだ。


「よか……た……ごめ、なさ……い……私、お役に立てな……でも……千尋……さま、は……どうか……しあ……わ、せ……に…………」


 「なって」と、聞こえた気がした。千尋はそんな鈴を見下ろして、胸がギュっと詰まるのを感じる。


 鈴はきっと死を覚悟しているのだろう。鈴の頬を伝う涙と笑顔がやけに印象的だった。


 息が苦しい。この感情は一体何なのだろう? どうしてこんな時なのに鈴は千尋の幸せなど願うのだろう? どうすればそんな事が出来るというのだ。これが初の言う下等生物? 


 いいや、違う。少なくとも、鈴は違う。


 微笑む鈴の頬を撫でた千尋は、ようやくそれを理解した。


「……鈴さん、私は思いの外、あなたに会いたかったようです」


 冷たい頬を撫でながら言うと、千尋は決意した。


「雅、神通力を使います。皆を部屋から出してください」

「え⁉ わ、分かった!」


 千尋の言葉に驚いたのは雅だけじゃない。龍神が私用で神通力を使うという事がどれほどの事かを理解している喜兵衛も弥七も雅と同じように一瞬固まり、慌てて部屋から飛び出して行く。


 全員がその場から離れた事を確認した千尋は、そっと目を閉じた。指先から龍の姿に代わり、徐々に変身が解けていく。


 部屋いっぱいになった千尋は、小さな小さな鈴を囲うようにとぐろを巻き、神通力を使う。


 部屋の中には眩しいほどの光が溢れ、辺りの景色は真っ白に塗り替えられた。

 やがてその光は小さくなり、鈴をすっぽりと包み込む。千尋の神通力が次第に鈴の体に染み込み、鈴の体が淡く光り出した。


 少しずつ鈴の心音が落ち着き出した頃、千尋はようやく人の姿に戻りあぐらを組んで鈴を膝の上に抱え上げて強く抱きしめる。


「もう大丈夫ですよ、鈴さん。それから、もう二度とあなたを置いてどこかへ行ったりしません」


 数百年なんかでは足りない。この少女と悠久の時を生きたい。


 はっきりと鈴への気持ちに気づいてしまった千尋の心は、ようやく満たされていく気がした――。



 千尋が鈴を抱えたまま鈴の指に自分の指を絡ませていつものように浄化作業をしていると、ようやく雅達が部屋に戻ってきた。


「千尋……もう入っても大丈夫かい?」

「ええ、どうぞ」


 短く返事をすると、雅が猫の姿で戻ってきた。尻尾を垂らして耳を伏せ、この短時間で毛もバサバサだ。


「ごめん……あたし、何も出来なくて……ん!?」


 雅はそこまで言って顔を上げ、千尋と鈴を見て声を失っている。


「そ、それは一体何やってん……だい?」

「浄化中です。最近はよくこうして鈴さんの血を浄化していたのですよ」

「へ、へぇ……え!? そ、その体勢で!?」

「ええ。密着度が高いほど効果が早いので。ほら、大分息も落ち着いたでしょう?」


 そう言って千尋が鈴を見下ろすと、鈴は千尋にもたれかかったまま眠っている。


 雅は寝台に登ってきて鈴の顔を覗き込み、無言で鈴の顔にしきりに頬ずりをした。


 ポロポロと涙をこぼしながら、雅は何があったかを話し出す。


「ほんとだ、良かった……鈴、ごめんよ……本当にごめん……あたしのせいなんだ、千尋。あたしが蘭の薬を鈴に渡しちまったんだよ」

「ね、姉さんだけのせいじゃありません! 自分たちだって、症状が出てたのに強く止めなかったんです!」

「そうです! もしも姉御を罰するなら、俺たちも罰してくれ!」


 雅から遅れて部屋に入ってきた喜兵衛と弥七が縋り付くように近寄ってきて頭を下げる。そんな三人を見て千尋は真顔で言った。


「誰も罰したりしませんよ。あの薬をいつまでも置いていた私にも非があります。少し中身が気になったので本当の成分を調べようと置いていたのですが――どういう事か、説明していただけますか? 菫さん」


 扉の外には菫がしゃがみこんで泣いている気配がしている。


 千尋が声をかけると、その気配がゆっくりと動き、ようやく菫が部屋に入ってきた。


「お久しぶりですね、菫さん。先程は失礼しました」

「……いえ……私も……取り乱していたので」


 そう言って菫は緩慢な動作で近寄ってきたかと思うと、おもむろに千尋の膝の上で眠る鈴の頬を両手で愛しそうに包み込んだ。


「鈴……無事だった……助かった……良かった……本当に良かった……」

「あんた、鈴の事を嫌ってたんじゃないのかい?」


 猫の状態の雅がそんな菫に驚いたように言うと、菫も菫で喋る猫に驚いている。


「ね、ね、猫が……しゃ、しゃべっ!?」

「失礼だね! あたしはただの猫じゃない! 猫又の雅だよ!」


 猫と言われて雅はすぐに人型に戻りフンと鼻を鳴らすと、菫はとうとうその場に座り込んでしまった。


「ば、ば、」

「化け物とか言ったらあんたを頭から齧ってやる」

「っ!」

「雅、そんな意地悪を言うものではありませんよ。菫さん、私達はお察しの通り人間ではありません。雅は猫で、喜兵衛と弥七は狐、そして私は龍です」

「……?」

「すぐには理解出来ませんよね。まぁどのみちあなたの記憶はここを出る時に消してしまうのでどうでもいいです。それよりも、説明してもらえますか? どうして蘭さんが鈴さんに薬だと偽って毒を送って来たのかを」

「ど、毒!?」 


 千尋の言葉に雅達が叫んで一斉に菫を見ると、菫は拳を震わせて下唇を噛み締めた。


「鈴の前では……話せない」

「そうですか。どのみち龍の力を取り入れた鈴さんは3日ほど目を覚まさないと思いますが、仕方ありません。部屋を移動しましょうか。雅、喜兵衛、客室にお茶の用意をお願いします。弥七、あなたは先に菫さんを客室へ案内してください」

「分かった」

「はい!」

「はい。おい、こっちだ」


 そう言って三人は部屋を出て行った。


 三人を見送った千尋は名残惜しく思いながらも鈴を膝の上から下ろして寝台に寝かせ、掛け布団をかけると眠る鈴の頭を撫でて声をかける。


「少しだけ離れますね」

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