「普通なら、ね。でも父は知っていたのよ。あの人が鈴を憎んでいる事を。父は菊子叔母様の事を本当に心配していたわ。結核にかかったって手紙が来た時も、父は一人でイギリスに行こうとしたぐらい心配してた。だって鈴は父親を亡くしてすぐだったんだもの。それからすぐに菊子叔母様の訃報が届いて、多分、初めて父はあの人と喧嘩をしたの。鈴を引き取るかどうかっていう喧嘩を」
そこまで聞いて千尋は何かに納得したように頷いた。
ようやく佐伯家の全貌が見えてきた。どうやら佐伯家当主と菫は、母親と蘭が鈴を異常なほど嫌っている事に気付き、彼女を守るために蔵で過ごさせ、今まで辛く当たっていたようだ。恐らく二人が鈴に構えば構うほど母親と蘭の行為がエスカレートしたのだろう。
千尋は今にも泣き出しそうな菫に静かに言った。
「あなたもお父様も今まで苦労をされましたね。辛かったでしょう? 好意がある人にきつく当たるのは」
千尋の言葉に菫はハッとして顔を上げると、途端に大粒の涙をこぼし始め、まるで子どものように声を上げて泣き始めた。
「なんだよ、なんだ……あんた達、相思相愛だったんじゃないか!」
菫に釣られたのか雅まで泣きながらそんな事を言い出した。そんな雅の言葉に菫は泣きながら首を傾げている。
「鈴はあんた達の事を悪く言った事なんてただの一度もないんだよ。蘭の事は良い人だとか優秀だとかしか言わなかったけど、あんたの事は結構話してたんだ。あんたの文句のおかげで料理が上達した、だとか、とてもハッキリした性格だ、とかさ。あんたの事を話す時の鈴は、いっつも嬉しそうで懐かしそうだった」
「……そうなの?」
「ええ。鈴さんがどんな方か、あなたの方がよく知っているのではないですか?」
「知ってるわ……あの子は優しいの。昔からずっと……馬鹿みたいに菫ちゃん菫ちゃんって! どれだけ冷たくしても笑うの! 子どもの時みたいに笑うのよ! 蘭の事だって少しも疑わないで、二人は私の自慢だなんて言って! 蘭に殺されそうになっても全然疑わないのよっ! そういう子なの!」
「そうですね。鈴さんはそういう人です。だから正式に結婚の通達を出したのですよ」
千尋が言うと、菫は涙を引っ込めて首を傾げた。
「……聞いてない」
「ええ、でしょうね。あなたのお母様から、もう少し待って欲しいと返信がありました。そして、今回の事件です。変だと思いませんか?」
「まさか……蘭をここに嫁がせようとしてるんじゃ……」
青ざめてそんな事を言う菫に、千尋は頷いた。
「そのまさかだと思います。鈴さんをここに嫁がせようと最初に言い出したのは蘭さんかお母様ですよね?」
「そうよ。神森家に私達を嫁がせるなんてとんでもないって。でも最終的に決めたのは父よ。私はもちろん最後まで反対したけど、父が鈴をここへやるって決めたのは、神森家は結納が終わるまで鈴の身柄を預かりたいって言ってきてるからだったの。もしも神森家に鈴が追い出されたら、そのままこっそり父の兄妹の所に鈴を行かせるって。そうしたら鈴は、もう二度と蘭やあの人に命を脅かされたりしないだろうからって」
「それはまるで鈴さんが佐伯家に居る限り、ずっと命を狙われると思っているようにも聞こえますね」
「私もそれが不思議なの。どうしてあの人がそこまで鈴を嫌うのか、誰も教えてくれないんだもの」
「それはもしかしたら鈴さんが未だに佐伯家の養子になっていない事と関係があるのかもしれませんね。分かりました。その事に関しては私達が調べておきましょう。それから菫さん、あなたはこれからいつでも鈴さんに会いに来てやってください。彼女はここで保護します。そうご当主にもお伝え下さい」
「記憶は消さないのかい!?」
「ええ。菫さんは大丈夫でしょう。この方もとても美しい血の流れをしていますから」
街で会った時に感じたのは、菫と蘭の血の流れの違いだった。同じ家で育ち、同じものを食べているはずなのに二人の血の流れは真逆で余計に蘭を注視していたのだが、それがこんな事になってしまうなんて流石の千尋にも予想が出来なかった。
「今更、会える訳ない……」
「どうしてです? 鈴さんはとても喜ぶと思いますよ?」
「……そうだといいけど……」
「雅がさっき言ったではありませんか。あなたの事を話す時、鈴さんはとても嬉しそうだと。たとえ記憶を失っていても、あなたと小さい頃に遊んだ事はきっとどこかに刻み込まれています。だから鈴さんはあなたを悪くは言わないのですよ」
それを聞いて、菫はようやく頷いた。
「……あの子が起きたら……教えて」
「ええ、もちろん。それから今回の事は佐伯家には――」
「言わないわ。絶対に」
菫は千尋が言い終える前にはっきりと言い切った。
鈴の言う通り、菫は意地っ張りで天邪鬼だけれど、鈴とよく似てとても優しい少女だった。
その後、菫は鈴が言っていた通りやっぱり「残ったら困るでしょ?」などと言ってパウンドケーキを残さず食べて帰路についた。すっかり遅くなっていたので佐伯家の近所まで弥七に送らせたのだが、千尋と雅はまだ居間に居た。
雅はだらしなくソファにだらりともたれて大きなため息を落としている。
「はぁ……何だか長い一日だった……」
「全くです。あ、そうだ雅。私、近々初と番を解消すると思います」
突然の千尋の宣言に、ソファに座っていた雅がずり落ちた。
「はあ!? ちょっと待ってくれ、一体何が――いや! それよりもあんた、まだ里帰り中だよな!? こんな所で何やってんだ!」
相当混乱しているのか、意味の分からない雅の怒り方に思わず千尋は微笑む。
「呼びつけておいて今更そんな事言います?」
「それは……うん、悪かったよ……まさか蘭がトリカブト送ってくるなんて思いもしなかったんだ」
「本当に。流石の私もまさかトリカブトだとは思っていませんでした。本気で殺しにかかっていますね」
「一体どんな恨みが鈴にあるってんだ! で、あんたは随分と冗談が上手になったね。なんだよ、初と番解消するって」
「いえね、実はどうも私、罠にかけられたようなんですよね」
「ど、どういう事だい?」
「まだ流星――私の友人が調べている最中なんですが、いつだったか雅が言っていた通り、あの事件は仕組まれた物だったようです」
それを聞いて雅は目を丸くした。
雅は猫又になって千尋が地上に降りてきた理由を聞いた頃からずっと、千尋は誰かにはめられたんだと言っていたが、まさかそれが当たるとは思ってもいなかったのだろう。
「そ、それでそれには初が絡んでんのか? あんた、今までそれに気づかなかった?」
「そういう事になりますね。そして全く気付きませんでした」
「……そこまで関心がないのは最早才能だね……それで? 新しく番を募集すんのか?」
「いいえ? 鈴さんと本当に婚姻を結ぼうと思います」
いつもの笑顔で淡々と言う千尋に、とうとう雅はソファから完全に落ちてしまう。
「ま、待て! どうしてそんな話になるんだい!? そもそもまずは鈴に了承を取って、いや! あんたらまず種族が違うだろ!?」