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第106話

「はい。どれほど優秀な薬でも、体調や体質に合わない薬は毒となります。あなたはたまたまあの薬で酷い食あたりになってしまったのですよ。食あたりは時として死に至ります。本当に、間に合って良かった」


 そう言って千尋は鈴の頬をそっと撫でた。ひんやりとした手の平は冷たいけれど心地が良い。


「そう……だったのですね」


 そんな事があるのか。鈴はぶるりと震えてふとカレンダーを見た。

 あれ? ところでどうして千尋がここに居るのだ? まだ月の半分しか経っていないのに……。それに気づいた途端、鈴は飛び起きて千尋に頭を下げた。


「も、申し訳ありません、千尋さま! 私が食あたりなんかになってしまったばかりに、千尋さまに物凄くご迷惑をかけてしまいました!」


 間に合って良かったという千尋の言葉から、千尋は鈴の為に帰ってきてくれたのだと察した。


 なんという事をしてしまったのだろう。迷惑をかけたくなくて蘭の薬を飲んだというのに、まさか寝不足以上の迷惑をかけてしまうだなんて思ってもいなかった。


 千尋は寝台におでこを擦り付ける鈴の隣に腰掛けて、鈴の肩にそっと羽織をかけてくれる。


「鈴さん、怒ってなど居ませんよ。それに、あなたのおかげでもしかしたら私も間一髪、助かったかもしれないのです」

「? どういう……事ですか?」

「あなたがもう少し元気になったら話しましょう。今はまだ横になっていてください。お願いですから」


 そう言って千尋は鈴をゆっくりと押し倒した。相変わらず優しい千尋に鈴の胸はギュっとなる。


 その苦しさが何なのか分からないまま千尋を見上げていると、おもむろに千尋が鈴の目を片手で覆って視線を遮った。


「あまり見ないでください。我慢出来なくなりますから」

「は、はい、すみません」


 何がだろう? やはり怒っているのか? もしかしたら婚姻を取り消される? 鈴が恐ろしい事を考えていると、ようやく千尋の手が鈴の目から離れた。


「ああ、いえ、あなたは何も悪くないんですよ。ところで何か食べられそうですか? お粥か何か作ってもらいましょうか?」


 そう言われて鈴は咄嗟にお腹を抑えた。言われてみればお腹が物凄く減っているような気がしないでもない。


「あの……」

「はい?」

「卵焼き……と、おにぎりが……食べたいです」


 咄嗟に思いついたのは、毎朝鈴の為に佐伯家の誰かが用意してくれていた歪なおにぎりと殻入りの卵焼きだった。目覚めると今もたまに無性にあの朝食が食べたくなる。


 そんな鈴の心を察したかのように千尋は頷いて鈴の頭を撫でると、そのまま部屋を出て行ってしまう。


 それからしばらくして、廊下が複数の足音で賑やかになった。そう思った次の瞬間、勢いよく扉が開き雅と弥七、それから喜兵衛が部屋に転がり込んでくる。


「鈴! あんた、あいつに何もされなかったか!?」

「鈴さん! ああ、良かった! ちゃんと目を覚ました!」

「おい! 体調はどうだ!? もう気分は悪くないか!?」

「だ、大丈夫です」


 鈴はそう言って起き上がると、寝台の上に座って皆に頭を下げた。こんな風に誰かが鈴を心配してくれるなんて、本当にいつ以来の事だろう。佐伯家でも誰かが心配してくれていた。


 けれど誰も名乗り出てはくれなかったし、あくまでもこっそりと心配してくれていただけだった。それも十分に嬉しかったが、やはりこうやって心配されるのは胸が熱くなる。何よりもその事をこうしてちゃんとお礼を言えるのが嬉しい。


「皆さん、ありがとうございました。それから……ご迷惑をおかけしてしまいました……」

「迷惑なんかじゃないよ。あんたはまた日本語を間違えて。こういう時は、心配かけてごめんなさい、だろ?」

「心配してくれてありがとう、の方が良くないですか?」

「別に謝罪も礼もいらないだろ。元気ならそれでいい。ほら、これ今朝の切り立てだ」

「山茶花ですか? 綺麗な赤色ですね」

「ああ。雪が積もったら真っ白な雪によく映える。早く治せよ」

「はい!」


 鈴がそう言って弥七から花を受け取ろうとしたその時、突然後ろから手が伸びてきて鈴の代わりに誰かが山茶花を受け取った。驚いて振り返ると、そこには笑顔の千尋が居る。


「これはこれは美しいですね。鈴さん、飾っておきますか?」

「あ、はい。ありがとうございます」


 千尋は鈴の言葉を聞いて山茶花を机の上に置いてあった花瓶に挿すと、パンと手を叩く。


「さあ皆さん、そろそろ自分の仕事に戻ってください。そして鈴さんはもう少し寝ていてください」

「は、はい」


 この会話はさっきもしたな。そう思いながら鈴が寝台に横になると、千尋は皆の背中を押してそのまま部屋を出て行ってしまう。


 千尋が過剰なぐらいに心配してくれている事が分かって鈴は猛省した。きっとそれほど酷い症状だったのだろう。何せ100年に一度の里帰りを切り上げて帰ってきてくれたほどだ。


「ありがとうございました、千尋さま。そして……ごめんなさい、初さん」


 そんなつもりは無かったけれど、結果として鈴のせいで千尋はまた初と離れ離れになってしまった。それはどれほど辛い事だろうか。


 とりあえず今鈴に出来る事は早く元気になって、皆を安心させる事だ。


 そう思った鈴は、その後雅が運んできてくれたおにぎりと卵焼きを食べてまた眠りについた。



 それから半月ほど経ったある日のこと。神森家にちょっとした事件が起こった。


 すっかり体調が戻った鈴が今日も元気に喜兵衛と昼食を作っていた時の事だ。


 突然庭に雷が落ちて、驚いて喜兵衛と共に庭に出ると、そこには枕ぐらいの大きさの赤い何かが地面に転がっていた。


 鈴が恐る恐る近寄ろうとすると、後ろから喜兵衛に止められてしまう。


「鈴さん! 危ないですから離れてください!」


 そこへ音を聞きつけて雅と弥七がやってきた。


「一体何事だい!? ん? なんだ、あれ。トカゲのお化けか?」

「え!? お、お化け!?」


 お化けが苦手な鈴が一歩後ずさると、背中が誰かにぶつかった。思わずよろけそうになった所をしっかりと支えられてハッとして見上げると、そこには千尋が庭に落ちたトカゲのお化けを見つめながら立っている。


「楽?」


 よく通る千尋の声に反応したかのようにトカゲのお化けは立ち上がり、目を擦りながらヨタヨタと歩いてきた。そんな姿が何だか可哀想やら可愛いやらで思わず鈴はトカゲに近づいてハンカチを差し出す。


「目をこすってはいけません。砂で眼球を傷つけてしまいます」


 そう言ってハンカチでそっと目尻を拭ってやると、トカゲはようやくうっすらと目を開けて、鈴を見て小さな悲鳴を上げる。


「あ、青い目! 人間なのに青い目!?」

「楽。鈴さんは海外の方との混血なのです。そういう言い方は止めなさい。それに、私と同じ色ですよ」

「! 千尋さま!」


 楽と呼ばれたトカゲは千尋を見てパッと顔を輝かせて、次の瞬間その場にひれ伏した。


「も、申し訳ありません千尋さま、この楽、千尋さまの言いつけを守れず追放処分を受けてしまいました……」

「どういう事ですか? ああ、もう一人いらっしゃるようです。皆さん、庭から出てください」

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