♤
家で仕事をするようになった千尋の元に違う部署の人達から苦情が入るようになったのは、鈴の妊娠が発覚してから三ヶ月後の事だった。
書斎で鈴と二人で育児書を読んでいた千尋が「そう言えば」と切り出しその話を鈴にすると、鈴は驚いたように目を丸くして千尋を凝視してくる。
「え!? だ、大丈夫なのですか!? やっぱりお仕事は行かれた方が良いのでは!?」
「はは! 苦情と言っても鈴さんが考えているような事では無いので安心してください」
千尋はまだ愕然としている鈴を抱き寄せて、大分目立つようになってきたお腹にそっと手を当てた。
そんな千尋に鈴は安心したかのように胸を撫で下ろし、千尋に体重を預けてくる。
こんな風にごく自然に鈴が甘えてくるようになるまで、千尋は心の奥深くから滲み出てくるような歓喜や温もりを知らなかった。
もちろんそれまでも幸せではあったが、鈴のどこか遠慮がちな態度が消えた事でそれをより一層感じるようになったのだ。
「一度休憩をしてお腹に力を流しましょうか?」
「そうですね。何だか最近は千尋さまの力が心地よいのか、千尋さまの力に触れるとこの子も喜ぶんです! その度に私と一緒だなって思います」
微笑みながらお腹を撫でる千尋の手に、そっと鈴の小さな手が添えられた。それに気付いた千尋は鈴の手のひらを返してその指に自分の指を絡ませる。
「最初はあんなにも拒否していたのに不思議なものですね」
「千尋さまの力は自分を傷つける物ではないと気付いたのではないでしょうか? むしろとても甘くていつまでも触れていたいと思うので」
「そうですか?」
「はい。実は千尋さまがこの子に力を流している時、私もこっそり千尋さまの力にうっとりしていますから」
そう言って鈴は恥ずかしそうに俯くと、それを誤魔化すように繋いだ千尋の手を握ったり開いたりしている。
「こっそりじゃなくて良いのですよ。堂々とうっとりしてください」
千尋の力は強すぎて誰も触れたがらない。だいぶ昔に栄に力を流した事があるが、その時はまるで津波か何かに襲われるかのようだったと言っていた。
けれど鈴は、鈴だけはそんな千尋の力を心地よいと言っていつも受け入れてくれる。それはきっと鈴が龍ではなく普通の人間だからなのだろうが、それでもその言葉はいつも千尋の心を優しく包み込む。
「それでは今日は堂々とうっとりしようと思います!」
鈴は甘えるように千尋に抱きついてきたかと思うと、千尋の頬に軽いキスをしてくれる。
この他愛もない親愛のキスは、鈴が生まれた国では友人や親戚などの親しい人たちにもするようだが、鈴が誰かにそんな事をしているのを千尋は見たことがない(もちろん千隼は別だ)。
何となく気になって鈴にその理由を聞くと、返ってきたのは意外な言葉だ。
「確かにイギリスでは友だちやバイオリンのお爺さんにもキスしていましたが、日本ではそういう事はしないのだと知りました。最初は寂しかったのですが、だったら私はいつか自分の家族が出来た時にだけしようと思ったんです。どんな人に嫁ぐかは分からないけど、そういう文化を、私が生まれた国の事を愛してくれるような人だといいなって思ってました。でも日本に来てから私は結婚どころか家からも出られない状況で、そんな時に千尋さまが縁談を持ってきてくれたんです。千尋さまは私の歌を聞いて目を輝かせてくれた。私の英語を聞いてもお箸が使えない私を見ても怒ったり笑ったりしなかった。それどころかあなたは私の洋食や洋菓子を気に入ってくれた……その時に、こんな人とはきっともう巡り会えないって思ったんです。そしたら自然と、たとえ軽い親愛のキスだとしてもこの人にしかしたくないなって思えました。私の中できっとキスというものへの思いが日本に居る事で変わったのかもしれません」
はにかんでそんな事を言う鈴は千尋の心をいつも簡単に奪い去る。
「あなたは本当に……いつもちゃんと教えてくれるのですね」
簡単な理由が返ってくるだろうと予測していた千尋とは裏腹に、どうやら鈴はそんな事を考えて千尋と千隼以外に親愛のキスをしなくなったらしい。
鈴の心はいつでも澄んだ湖のように穏やかで美しく優しい。その湖畔にはきっと癒やしを求めた小鳥たちが住み、いつも楽しげに囀っているに違いない。そんな光景が見たくて皆、鈴の周りに自分も含めて集まるのではないだろうか。
千尋は鈴を優しく包みこんだ。
「私は果報者ですね。あなたのような人とこれからも生きる事が出来るのですから」
「それは私もです。千尋さまは自分で思っていらっしゃるよりもずっと、暖かくて優しい方ですから」
「ですが、今は皆に煩い旦那だと思われていますよ」
鈴の妊娠が発覚してからというもの、千尋は神経質になりすぎていると雅から指摘があった。職場で最近出ている苦情とは違い、こちらはかなり深刻だ。